師匠の見つけ方。こんな歌人には気をつけよう。

2017年4月9日

歌壇 現代歌人様





肩書よりも、論文よりも、作品を見ればわかるでしょ?わからないならいるべきでない。

アンタッチャブル【自分より大きな餌を求め彷徨う小人たち】




窮乏に喘ぐ村の村長さんから、新天地を探し出す使命を受けた若者たちのリーダーがいた。


選抜前日の晩、妻と大喧嘩をした村長が投げやりにした棒っきれが、たまたま、その男の頭を打ったのだ。


男の全身に雷が駆け抜けた瞬間だった。
男は天命を授かった神の子のごとく振る舞うようになった。


そして、その日はやってきた。
狂人と化した男たちは今日という日に旅立っていく。 


旅立つ彼らを村はずれの丘の上から見送る男がいた。
普段から、村一番の役立たずと小馬鹿にされている男だった。


男の胸には生涯を共に暮らす女のために摘んだ可憐な花が抱きかかえられていた。


男は知っていた。


狂人たちが二度と戻って来ない事を。




それ行け、ばったもん。




才能に乏しい人が、たまたま受賞の栄誉にあずかってしまった。


作者としての存在が歓迎されないのは当たり前。


だけど、そんな人をわざわざ叩きのめす必要はありません。


彼に期待するのは、どのように生き抜いていくのか、それが唯一の関心事です。


才能のないものが、才能に恵まれた人の顔をして生きていくのです。


沢山の人にとって彼は希望です。


創作で生きられない彼は生きる為に沢山のアイデアを生み、愚行を繰り返してくれるでしょう。


常人がこんな真似をできるでしょうか?


だからこそ彼を慕い補佐する人も一定数は現れるでしょう。


そんな彼らを、どうして刺激する必要がありますか?


わたしは彼らを見ていたい。


見事生き抜いたなら称賛したい。


どこでどうくたばったって惜しまれる存在ではない彼らに乾杯。




老害はただ腐るのみ 才能ないよね先生。


そんなのいらね。


生涯現役を公言しているくせに、実務はたいしてこなせないのだから、そりゃ若者に目の敵にされるのは当たり前でしょう。


二人いたら仕事量も二人分割り振られるのに実際の労働量は言わずもがなになるわけで、いない方がいいのはアホでもわかる。


そこが文壇なら、なおさら老害の存在など放置しておけないはずなのだけど特に歌壇なんて「土屋文明」さんとかいう百まで現役なんて存在していたようで、大変ですね。

絶望こそが世界を開く。



「正真正銘の本物が希望」だと、バカ言うんじゃない。そいつは絶望だ。


「天才降臨」だって「受賞日から天才認定」とか、関係者は何様なんでしょうか?


食えるほども面倒をみないくせに、とてつもない逸材を発見したパトロン気取りですよね。


そんな凄い方なら老害は師匠を名乗らず、補佐にもならず、ただの憂さ晴らしにでもなればいいのです。


それが持って生まれた本来の立ち位置だと思いますけど違うのでしょうか?


わたし使えない老人は嫌いです。引退されたご老人ではありません。


  • 初めから才能には見放され見限られていたモノ。
  • 拝金主義者の囲いモノ。
  • そして次代の笑いモノ。

そんな爺さんが見る希望は無能無才の無謀を絵に描いたデクをおいて他には存在しない。



  • お気に入りに囲まれて暮らしてきた爺さんに覚悟なんてできない。


  • ズルいからこそ今まで文化人として世間を欺いてこれたのです。



「正真正銘の本物」そんな存在が目の前に現れたら「絶望」じゃないですか。


大見得をきるのもたいがいにしておかないといけない。


ギャラリーは場外乱闘よりもKOシーンが観たいんだ。



世間様は、もっと、もっと楽しみ方を工夫しないといけません。


楽しみ方まで誰かから教えを乞うなんて、おかしな話だと気づかなければなりません。


「そんな事を言ったらかわいそうじゃないか。」「お年寄り相手に、本気ださなくても」とか、「おまえのような馬鹿が、あんな偉い先生に」とか、基本、実績や肩書から双方の立場に立って弁護する者。罵倒する者に分かれるけれど、先ず、「誰得」か考えないと。


自分たちは楽しくないでしょう。
ただ、わたしは「いい人」と自己満足に浸るだけのことですね。


笑っているのは実力の伴わないズルい人です。


だったら、傍観者に徹して、その攻防を楽しむべきです。


残念ですが、ギャンブル好きのほうが楽しみ方は知っているかな。
ここだけはギャンブラーに見習っていいと思います。


A:「先生さあ才能ないよね。」
B:「根拠はなんだ。」
A:「そんなもの不要だ。無いものは無い。」
B:「ばーか。」


流れとしては、こんな感じかな。


ですが、世間は先生の名作とやらを知っているのですか?


「無いものは無い。」連打だけで倒せるのが結構いると思うなら、連打させた方がおもしろいでしょう。


「根拠」だと「無いものに根拠なんて示せるか、ばーか。」も悪いもんではないと思います。


むしろ「有ることを証明しなきゃな先生。」となるべきです。


語彙も少ない、知識も経験も足りないそんなおバカさんを攻撃したって楽しくはありません。


それより先生をいじる方が楽しいとおもいませんか?


前線に引きずりだして、さらし者にしていいのは先生ですよ!


相手がバカだと人権を問われます。


しかし先生ならば叩けば叩くほどに、バカに対して「あなたにとって人生で初めて聞く語彙でしょうけれど。」と、ほくそ笑みながらジャブの連打を彷彿とさせる沢山の言葉を惜しみなく吐き出してくれることでしょう。


どうですかお得感満載でしょう先生


なにを言われたって「才能無いよね先生。」の連打だけしていればいいんだから楽と言えば楽です。


こんなに楽しくて、楽ちんな遊びを妨害しているのが、リングに立つことさえできない分身たちですね。

忍忍・・・・・・。


本体を倒したら消えちゃうし、これも、まあ楽と言えば楽なわけです。


場外乱闘なんて痛いだけです。


みなさん、もっと楽しまなければいけません。先生の手先にされてどうするんですか忍忍・・・・・・。



腐敗と発酵 何が歌壇の閉塞状態だろう。



売れない歌人様なんて者は師匠のお尻から途切れなく連なるうんちなのだから、しっかり耕さないとそのうち歌壇と言う肥溜めが「ふんまみれ」になるのはわかりきっていたことでしょう。


もんぺを穿いて土地を耕すべきおばさん連中はと言うと、そんなの嫌だとばかりお通じの悪くなったでか尻を着物に包んで、何を詠んでいるのかと思えば下のゆるんだうんち垂れ流しの老人介護短歌ですから、もうね喜劇ですよね。


そりゃ堆肥にできないうんちばかりを、あちらこちらにまき散らかしたまま土地を瘦せさせてしまっているのだから、かだんに花も実もできないのは当然だと思います。


都会的で鋭利で前衛的なんて評価は先駆者だけにゆるされるものであって、後追いの連中はアスファルト上に干からびるうんちと自覚しておいた方が身のためです。


アスファルト上のうんちは蠅の寝床であり餌場でしかない。


蠅は幼虫も成虫も立派な餌ではあるけど、健康な人間には不愉快な生き物です。


願わくば、人の行き交う道半ばに腐敗することなく畑で発して花や実の養分として立派な堆肥になっていただきたいものです。


いよいよとなったところで希望が生まれるなんて考え方が凡愚の証明なんですよね。


彼らの求める希望と我らが求める希望は相反する存在なのだから。(まじぇまじぇしないでいただきたい。)


さてと、彼らが師匠 かの「こうもんさま」さながらにお連れの方を従えて、今日は東へ明日は西へとあの道、この道、すかっ屁をこきながら講演会に向かうのでありました。


ぷんぷん!!

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