F1レースにおいて、モナコGPでの一勝は、他GPでの3勝分に匹敵すると解説者が語っていました。
モナコだけ勝ち星を重ねてもWorld Championにはなれないわけだけど、チーム力で勝ち星を稼いでいくChampよりドライバーとして後の評価は高いわけです。
腕を磨かなくても環境を変えれば勝てる世界
モナコマイスターと称えられたアイルトン・セナがサンマリノGPで事故死したシーンはリアルタイムで観ていました。
その時は、まさか亡くなるとは思わなかったなあ。
しばらくしたら復帰されるだろう、それより後ろを走っていたシューマッハに、いいところをさらわれるなと悔しかった。
このころです少しだけ短歌を齧った、いや舐めたのは。
セナ、プロスト、マンセル、本田宗一郎(敬称略)がいた頃は、腕と度胸と才能と、先進技術のせめぎ合いがあった。
古館さんだって、おかしな人とは誰も思っていなかっただろう。
セナが亡くなり、本田宗一郎が亡くなり、(マンセル、プロストはすでに引退していたような?)安心、安全、安定のシューマッハ時代が到来しちゃったよ!
強いのは良い事なんだけど、激しい抜きつ抜かれつのデッドヒートが減り、マシントラブルや、ピットトラブルに期待をよせる悪い観戦者になりさがりました。
ドライバーもどんどんエリートが養成されて、叩き上げかん漂うキャラはモントーヤぐらいだったろうか。(実際はエリートなんだろね。)
そういうキャラ設定されていたし。
決められたルールの中で行儀よく作業をこなしていくドライバー。
チーム(車とタイヤ)が変われば、あっさりと成績も変わるレース。
もはやドライバーにドキドキは期待できなくなってしまった。
当然の事ながら世界のトップランカーではありますが、シューマッハvsその他でしかなかった。
シューマッハの存在を際立たせるために存在する世界ランカー。
彼らにチャンピオンになる腕は不要だった。
必要なものは勝てる車とタイヤそして経験豊かなスタッフたち。
それらを提供できる環境だった。
我々は周回遅れの世界に死ぬ
いいえ、ばあちゃん。そこには人生の縮図があるのですよと思いつつ口にはださずモニターを眺めるわたし。
およそ二時間、時速300km以上で駆け抜けてきた美しいF1マシン。
その差は千分の一秒。
チーム全員がドライバーを祝福する。
圧倒的な資金力を誇るワークスチームと弱小プライベートチーム。
プライベーターのメカニックとドライバーは、次戦に備えて早々とピットの奥へと消えていく。
星空の下、人々の歓声と冷たい工具の金属音が響く。
華美なドレスに身を包んだ婦人とみだらな衣装の娼婦が男のもとへと駆け寄っていく。
どちらも数時間後には裸になる。
やがて世界に産声が響く。
経済関係が複雑に絡み合う時代がつづいた。
絡み合った紐を解きほぐす行為は乱世を呼ぶと、平和論者たちから軍国主義者の謗(そし)りを受ける為政者。
なるほど解らなくもない。互いの利益を失ってまで殺し合いはするまい。
ほとんどの人は、そう言われるとそうだな、と疑うことはなかった。
だが、そもそも我々の思考や常識が及ぶ世界の話だろうか?
わたしは思う。世の中の大多数の思考や常識など「妄想」でしかないのだと。
現実は我々を置き去りに時を刻んでいるのだ。
町中に溢れる車、車、車、モナコの数日間が過ぎれば、労働者たちが行き交う道路。
かれらは、ぼくたち。
ぼくたちは、来年のモナコGPを追いながら走り続ける。
結社ダメ、出版屋ダメ、ネットダメ、お金積まずに在庫積む
F1は年に一度のお祭りだから、地域差はあるものの1GPせいぜい数百億円と試算されているのでその経済効果が葬祭業に遠く及ばない事はおわかりいただけると思います。
そこそこの実力であるF1ドライバー候補がF1のドライバーズシートを手に入れる為には、チームにスポンサーを提供する必要があると元F1ドライバーが語っていたのを思い出す。
お金を貰うのではない。お金を積むのである。
俳句や短歌結社に毎月きまった会費を支払って自作を社誌に掲載してもらっている会員はどこをゴールに走っているのだろう。
わたしは思う。俳句、短歌総合誌は結社主宰および幹部クラスの作品掲載料は支払うのではなく、請求すればいいのにと。
その結社の、その月の、全会費の半分以上半年分を最低請求額基準にして半期に一度「どうよ?」と声をかけてあげたらいい。
それにより資金力の無い組織は淘汰されていくだろう。
ここからよ本題は。
組織の資金力とは会員からの支持率であったり、支持率とは主宰への信頼度であったり、他いろいろとあるわけですよ。
で、そんなみんなのお金を使って個人作を掲載した結果が惨憺な事になると業務上横領とか、詐欺罪とか犯罪と言われてもおかしくないわけです。
そこをあえて「おら行けおれたちの主宰。」なんて素敵じゃないですか。
ここは玉砕覚悟でやらせてみたい。見てみたい。
そして見事に壊滅なんて事になっても素敵でしょ。その後の会員たちのバンザイアタックも見てみたい。
だから、これからの出版屋は稿料なんて支払う必要はないと思うぞ‼
なぜだって?理由は簡単なんだぜ‼今まで稿料を支払ってやって部数は伸びたかい?
現状維持なら支払うより請求にシフトチェンジしなよ。相手は人様の上に立って、「主宰だ、選者だ。」で収入を得ている自称プロですぜ。
読者はプロの仕事を拝見させていただきたいでやんす。
値段をつけて売っている総合誌なら、読者にそれを提供してやる義務がありやすぜ。
「くっそ、おまえら、いつまで金を恵んでやっつても、自由にやらせても部数が伸びねえヨ!リベラルの名が泣くぞ。」話しはここからでしょう。
「もうね、掲載してほしけりゃ、掲載料を支払いな。広告料ってさ、お金が要るでしょ。あんたの作品は利益を生まないのよ!わかる?それってさ、素人の作だからさ。もうね、掲載してほしけりゃ掲載料を支払いな。」
「気に入らないならそれでもいいけど、先生面はできなくなると思ってね。選者で食うとか無理ゲーだから、そのへん良く考えなよ。」
↑ここまでは、普通に口にしてもいいと思うよ。(無責任発言だけどさ。)そうでないと、威厳を失った俳句、短歌誌なんてこれからどんどん廃刊の波に呑まれちゃうゾ!
世の中はどんどん可視化されていく中で、肩書におどらされる人間なんて団塊世代の終焉から激減するからね。
だってさ、それを主導していた層が現実社会から退いて逝っちゃうのだからね。
システム崩壊まではその価値観を利用する者がいても、それを信じる者なんていなくなるって。
この学歴社会のなか高学歴で貧乏なんて「罪」だよ「罪」。同窓生が始末するのは、低学歴よりも先に「君」だと思う。
理由はわかるよね?
存在するルール(社会体制)の中で結果を出せない肩書が「信用」になり得るわけがないでしょう。
それに昔も今も、自分の立場を脅かす船頭は二人も必要としないのですよね。勤労水夫は多数必要ですけどね。
国を挙げての愚民化政策なんてこともあるのだから、意外や意外、愚民は国から重宝される者なのさ。
いずれ「現物だせや。」と言う者はわたし一人ではなくなります。
必要としている者の眼前で差し出されたそれが、噂通りに使えるか、使えないかが重要視されますよ。
だからね↓
せこい金儲けにおどらされなけりゃ、創作なんてさネットで一撃よ‼
時々考えるのです。革命の好きな人たちは文化侵略を果たしたいなら圧倒的な才能(作品)を持って無償の世界にかえてしまえばいいのにと。
(なあ、歌集なんて要らねえだろ。全部ネットに吐き出してしまえ。)
それが彼らの本筋だと思うけど、自費出版屋を立ち上げて会員をカモに歌集を売り出したりと、お金持ちを目指しちゃうんだよね!←おいおい
「他人の思い出作りを生活の基盤に据えるなよ」とか思う時もありましたけど、基本めっちゃ、かわいいわ。←ブレブレ
あのさ、ホントにさ、稿料を差し上げてプロ認定とかせこい商法は、毎年の新人賞と同じく意味がねえよ。
掲載料の請求を実行すれば、元締め(出版社)の搾取が露骨に表出しただけと言う愚か者どもが一定数は喚くだろうけど、偉い人なら軽く論破できるって!
なぜってみなさん、どうやったって売れねえじゃん。←致命傷ね、これ。
もうね、まとめて霊柩車でいいよ。プアアアアア