短歌結社はもういらない 無所属が最良の選択になる人だけが生き残る

2017年4月18日

歌壇 現代歌人様

腹話術師


「あっ、操り人形がある。」きみはそう言ってぼくのもとに駆け寄ってきた。


魂なんていらない。欲しいのは言葉なんだ。
ぼくは、ほこりをかぶったままきみとの出会いをづっと待っていた。


ほこりを払うきみの手はとても乱暴だった。
払うというより、叩くようにほこりを払った。


ぼくは何度も目をパチクリとした。
衣装の底から伸びて来るきみの腕は冬眠から覚めた蛇のように冷たかった。


獲物を咥える蛇のようにきみの手がぐわりとぼくの咽喉元を強く掴む。


ああ魂なんて要らない。欲しいのは言葉なんだ。


「君の名は何と言うんだい。」


「ぼく、ぼくは、うーん?一と書いてはじめって言うんだ。」


きみはぼくに言葉だけでなく名前までくれた。


ぼくがきみだったのか、きみがぼくだったのか今ではもうわからない。


ぱちぱち、ぱちぱち夜空を舞う火の粉。絡み合う煙。
ぱちぱち、ぱちぱち拍手のなかでぼくたちは一体化していった。


「成功例に習う優等生」はじめの成功者は実力者でないといけない理由

(オウムに言葉を仕込むなら美声の女性が適任らしい。)


ローリスク・ハイリターンを是とする優等生。


優等生なら当然の行動原理である。


社会を担う彼らエリートが山師であっては困ります。


この彼らエリートの習性は修正されるものではないですね。


では、何が気になるかなあと、それは成功例そのものにあります。


それが成功するべき成功例であった場合は何も問題などないわけですが、世の中には成功するべきではない成功例が多々あります。


たとえば下記などがそうです。

  • お金で買える成功があります。
  • 組織力による成功があります。
  • 暴力による成功もあります。

*ようするに他力による成功であって、自力での成功ではない。


その存在は後援者のためにのみあるのであって他に対しては無力であり無価値なものであり無駄を生む害悪でしかない。


つまり社会悪である。


そのような輩が自身の成功例に味を占めて後進にも同じ道を奨めていき、やがてひとつの大きなコミュニティができる。


そしてそれらが社会を支配する。


実に恐ろしい。しかし、よくよく考えてみればそんな連中に期待をする方がそもそも異常なのだ。


ー さて余談になりますが、ここに具体例を挙げる必要があるでしょうか?
ネット社会の今、自身で真偽の判断をしながら具体例を求めなければいけないですね。


だって、わたしが左側の人間なら、右側が暴力あるいはお金で得た成功例ばかりを提示するかもしれません。


フェアではないのですよ。他人が提示する事例なんてものはね。ー


他力による成功例なんて多かれ少なかれ贔屓が働くのはあたりまえだろう、それを得るがための努力ではないかと優等生さんたちが嘲笑っているとしたらどうだろう。


それはそうです。他力での成功があるからこその、優等生の存在ですからね。


もとより彼らは他力での成功を確信したうえで頑張ってきたわけです。


結果として頑張ってきた彼らエリートを成功者としないわけにはいきません。


それは彼らに対する社会からの裏切り行為になります。


よって社会は彼らを歓迎します。


しかし彼等は社会に対して決定的な矛盾を抱えているのです。それは公人としての評価ではなく、私人としての評価をより望んでいるということです。ならば我々も彼らを公人として見るのは止めて遠慮することなく、彼ら個人に対しより厳しく、より多くを求めていけばいいのです。


その結果潰れていくのであれば、それは社会の浄化がすすんだと思えばよいだけのことです。

才能それは、おおいに意識するもの






才能とは若者が人生を踏み間違わいように準備されているものですよ。


あきらめも必要なのが人生です。


「ぼくには才能がなかった。」その一言を残して、別の人生を生きている人は幸せです。


何かをあきらめる理由として、これほど曖昧で漠然としたものはない。
しかし誰も傷つけないし、恨んだりもできない理由だ。


向き不向きがあるでしょう「駄目な奴は駄目なんだ。」なぜ、これを言ってしまうと駄目なんだろう。


関わって、まだ日も浅い者に対しては、さすがにそれはちょっとと思わないわけでもないけど、しょっぱなから止めるまで駄目な奴もいるんだよなあ。


本家を名乗りたがる似非物書きたち



飼い殺しだからね

師弟がそろって無才だと、自分たちではよくわからない才能には無頓着になってしまい創作者としての絶対条件であるそれ(才能)が否定され、やがてそこに奇妙な価値観を生みだし、そしてそれ(奇妙な価値観)をありがたがって共有しだすから始末に負えない。


わたしからすれば、これはもうカルトだ。


師匠が弟子の人生を狂わせてしまう最悪の環境を作り上げてしまう。


例えば名称は同じ「短歌」なんだけど、それは、あきらかに違う「短歌」で、その短歌ではない短歌の中で成功者を生み出していく。


文芸結社と言えば聞こえはいいが、小さな集団の小さな価値観だけで互いを慰め合う慰安所と言えなくもない。


それが小さな自分たちの世界だけで楽しまれているものなら無理やり他人が踏み込む必要もないわけですが、集団が慰みあいであることを忘れ高め合いと勘違いすると大変に迷惑な事態を招きかねない。


「新」だ「型」だ「技」だと喚くわけだが、世間からすれば「あんた誰?」その程度の存在なわけです。


そうではありませんか、きみ。


どこの誰かもわからない人が「新」だ「型」だ「技」とか声をあげたところで世間様は興味ありませんよね。


*優先されるべきは彼ら独自の価値観より世間が抱く短歌のイメージそのままを基本にした多様性です。


亜種がヒエラルキーへの反逆者となりカーストの頂点に成り代わろうとしているようにうつるのですよ、わたしには。


彼らは常に縦社会を意識し、縦社会を構築しようと動いてしまう。

  • 故に、既存の権威を嫌い否定する。

多様性を語る多くは彼ら才能に縁がない側に所属しているというのに、なぜ才能よりさらに得体の知れない価値観を担ぎ出そうとするのか、権威への歪んだ執着を抑制できないのか、拙い頭で考えれば考えるほど最終的には漠然と亜種は亜種なのだと思うほかはないわけです。


短歌の裾野を広げていくはずの者たちであれば感謝され、歓迎もされるのだろうが、先細りしていくだけの存在に本家を呑み込ませられるわけがないでしょうに。


亜種がありがたがるご神体なんて、そちら以外には見えるはずもなく、それに関わるであろう関連知識を無理して頭につっこんで論争とか、そんな事をしないと世間様は納得しないのだとしたら底辺でいいわと思う。


思っちゃったよ⁉······わたし。


話題は逸れますが、これは悪手です。悪手でした。賢いみなさんは糞の役にも立たない知識でも片手間で入るならどんどんインプットしていくべきです。


そして、その糞のような知識を怒涛のごとく吐き出して、つまらん連中が崇め奉るご神体を粉砕してください。(他人まかせっつたら、他人まかせだね。)


考えてみたら愉快な事ではありませんか、やっちゃって下さい。

神々の黄昏 才なき者はただの見世物


*凡愚が生み出した価値観が、社会に対してどこまで通用するのかは興味があります。


様々な意見があるのは当たり前として、それでもわたしは才能を信じる。


才能より奇妙な価値観を優先する連中に対しては一切関わらないし、関わりたくない。(自分から底辺でいいやと思っちゃったしね。)

凡愚が凡愚を生み凡愚が奉る他力の権化。


「君、才能がないよ。」これは精一杯のやさしさなのだと受け入れられる自称歌人が増えなければ、どこかの歌壇は単なるゴミ箱と化す。

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