- おもしろいのは短詩系には、流派が複数存在しているところですね。
- さらに、おもしろいことに、それぞれがそれぞれの色を前面にだしていることです。
- さらにさらに、おもしろいのは、ほとんどの優等生が卒業(自立)せずに、その色に染め上げられていく様です。
現代歌人様はメッキ工場で出来上がる
見る者が見れば事故車かポンコツがメッキ工場で板金塗装されているようなものですよ。
なんとかの方法なんて不要なんです。詩人になる方法=詩作できる方法と考えているなら、それはおおいなる勘違いです。
今時、詩人や歌手になるために感性や歌唱力が必要なんて考えている人がどれだけ存在しているでしょう。
誰もが感動する詩を書いても、歌を唄っても、それだけでは詩人にも歌手にもなれません。
ましてや、それを生涯の生業として暮らしていくなんて不可能です。
本来、「俳人、歌人」を名のる人とは名句、名歌を詠めるからこそ「俳人、歌人」と呼ばれる存在であるわけです。
ところが、わたしの知る限り「名句、名歌を詠む方法」なんてタイトルの本はありません。
それはつまり俳人、歌人を生む本は無いと言う事です。
あるとしたら「俳句、短歌の作り方。」今日からあなたも俳人、歌人。と、ふざけた手引書ばかりでしょう。
今日からあなたも俳人、歌人。これ問題だと思います。
上記のような手引書の読者は名句、名歌を詠めたのでしょうか?
法律のことなんてわかりませんが売れもしないものを量産しては俳人、歌人の名のもとになんらかの利益を上げているとしたら〇〇師と指摘されてもしかたないかもしれません。
上記はそのような人を生み出す危険がありますよね。
これはとても恐ろしい事ですね。著者に責任があるのか、読者に責任があるのか、その辺の問題を曖昧にするという意味においては、わたしの嫌いな「読み」は貢献しているようにも思います。
さて、わたしが売れない現代俳人、歌人様を軽蔑している理由のひとつには、かれらは(取り巻きもそうだけど)肩書「俳人、歌人」を全面にだして作品「俳句、短歌」はでてこないんだよね。
俳句17文字。短歌31文字。ですよ!世間から認知される(欲を言えば諳んじられる。)自作の5つや10ぐらい生み出してから名乗れやと憤慨させられるのですが、当の作者にはそんな気概も才能もないのでした。
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とは言え、売れなくても有名歌人様ですからね。商業誌での作品掲載はありますよ。ところがですね、※1大物と目される現代歌人様ほど商業誌で発表した自作を歌集におさめることはないんですよね。(取り巻きが死後にまとめるんだろうけど。)
あたりまえっていえば、あたりまえで、そんな安い商品、本人的には「勝負じゃ。」と気合の入っている歌集に入れたくないでしょ。(歌集のテーマからも外れているだろうし。)
(とにかく歌集に分厚さがほいのー。)なんて時代の尖端をかける若き歌壇のトップランナーにはむしろ「商業誌で評価のたかかった掲載作も入っているよ。」が売りになるのかも知れませんが大御所にはないと思うな。
この発想↑なんだかこう、自信の無い人の哀れと言うか、けなげと言うか、せこさが滲み出ているでしょ。さすがに人生を長くつとめてこられた方にこのケチ臭さはないでしょう。これはもう、わたし個人の願望ですけどね。
たとえ、なんちゃっつてでも大御所として祭り上げられているなら止めてほしい。
ところで今、現代俳人、歌人様を名乗っているのは数十の句、歌で編まれた連作が仲間内で評価された人たちです。
その連作から世間に認知された作品は生み出されているだろうか?
ないよね。
連作って決められた数の中に無理やり数合わせで作品をぶちこむもんじゃないよ。
そんなことをすれば、ほとんど説明になるとかバカでもわかる弱点が幾つかみえてくるわけですよ。
すると評価の基準としては消去法になるわけです。はじめから秀歌はなく結果として秀歌になりそうな作が一部残るだけです。
あとはそれにたいしていろいろとこじつけて「なんちゃって秀歌」のできあがりです。
それ自体がおかしいんだよね。連作なんだから凡歌を引き立たせる凡歌なんてある時点で凡作なんだよ。
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連作ってさ、技能を凝らした短歌を一編の物語とした「編集の妙」を楽しむものでしょ。
だから秀歌同士が潰し合うなんて事はないね。
そのくせほとんどの現代歌集が歌集として、大きなひとつのテーマによって編纂されていく過程で再構築されるわけでもなく当然のように編年体で編まれている。ってのも、ねっ、なめてんのか!!てなわけですよ。
(多分ね。知らねえよ。無責任ですまん。) ー 統計学とかいう難しい方法で調べるなら信頼がおける最低数として数百以上のデータ取りが必要らしいですね。
大型短歌賞受賞者や新聞、雑誌の選者様クラスの歴代歌集をすべて網羅しても出版数として説得力に欠けるでしょうから、(多分ね。知らねえよ。無責任ですまん。)って書きますが、これまで立ち読みレベルで見開いた歌集は有名、無名の区別なく、ほぼ編年体で編まれていました。
収録作が連作であれば作品の性格上尚更その確立があがる事は理解していただけるでしょうか。
物語としては一掌編として完結しているので、それを言い訳に妥協してしまうのです。←わたしは、これが大っ嫌い。
あらためて出版に至る過程を見渡せば、やはり受賞というきっかけは無視できないわけで、その作品募集要項には「連作」とあります。
つまり現在出版されている句集、歌集の多くが連作集であるわけです。
あとは上記のループですよ。自費出版とかいう思い出作りがありますが、社会現象を巻き起こすほどの自己主張がないかぎり句集、歌集としてはカウントしなくてもいいでしょう。
だからこそ、わたしが一番期待しているのもここ↑
俳人、歌人を自称するなら↑ここを突破してもらいたいのですが、受賞出版で壁に立つ者さえいませんものね残念。
それとね、おじさんは思うの、それぞれが確立された個性を持つ美男美女モデルなら何人いたって舞台で困ることはないんじゃないの?
メインはファッションでしょ。連作だって同じ事よね。モデルではなくてしっかりデザイナーを見ていないだけ。
裏舞台はともかく、表舞台でモデルは喧嘩しません。なぜって構想もセッティングもテーマに沿って上手くできているからです。
秀歌同士は反発しあう?バカじゃねえの!プロならプロの役割をまっとうするもんだ。
作者をプロに引き上げるほどの秀歌同士が足の引っ張り合い?ありえねえよ!
かれらは秀歌、名歌を排出しているわけではない。ただ、現代歌人を量産しているだけにすぎない。
当然の事ながら前面に押し出されるのは、現代歌人という肩書になるわけですね。はい。
あらためて言う。売れない現代俳人、歌人様には秀歌、名句もなければ一般世間に認知された代表歌さえもない。
潜在的、俳人、歌人を覚醒させるほどインパクトのある才能(実作者)が不在である証明です。
「俳句、短歌の作り方」だって、ほうほう偉人だねえ。
売れない現代歌人様だから「短歌の作り方」を書くのであって、短歌(秀歌、名歌)を詠めるから現代歌人様かと言えば、そうではない。とても重要な事なので、「短歌の作り方」を上梓されている先生の作には注力しておきましょう。
きっと笑える。希望がもてる。
あっ、そうそう「歌人になる方法」(正確には現代歌人様ね。)だっけ。
「ぼく(わたし)歌人。」とりあえず自己紹介でかたってりゃ歌人様だよ。
否、適当な結論ではないからね。ネットをはじめ、どれだけ無名の「ぼく(わたし)歌人」が存在していることか、数の暴力最強説ですわ。
一応、玄人を自称する歌人が定義づけしないんだから、それはそれで無言のお墨付きということでいいでしょ。
作品で食えていないという肝心要のところが共通しているし、間違いない。こいつらは仲間だ!
それに、「読み」とか言うけど責任を読者におっかぶせるという役目以外では実際ほとんど誰も他人の作品なんて気にしちゃいねえからさ。
そこ、つっこむと自滅する奴多数じゃん。
ねっ、そう思わない?(汚い言葉でごめんよ。)
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「アイヤー」追記です。
「大物と目される現代歌人様ほど商業誌で発表した自作を歌集におさめることはないんですよね。」※1なのですが、手元にある歌集で否定されたので紹介しておきます。
以前の記事、生きる事こそ仕事です。で前登志夫氏の歌集「青童子」を手に入れたと書いたのですが、あとがきにですね、某短歌誌の連載企画で作歌した短歌を中心にまとめた歌集であると記されておられます。
キャー、
この一文を目にした瞬間ですが、おそらく赤面していましたね。恥ずかしい。
まあ、それにしても現代歌人様をはじめ戦後文化人の韓国贔屓は凄いですね。
「青童子」は今から20年以上前の1997年に上梓されておられますが、企画歌以外では韓国詠ですって。
で「読売文学賞」受賞作です。
ちょうどその頃ですね、ぼくは短歌への興味を失った。
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