現代短歌がダメな理由。そもそもそこに歌人がいない

2017年4月14日

歌壇 現代歌人様




ワゴンRは食材でいっぱい

車を運転していて対向車が自分と同じ車だったりすると「おっ」と思います。


駐車場に同じ車が並んでいたらわたしも横に駐車します。さびしんぼうがする、ちょっとした悪戯感覚です。


色まで同じだと相手ドライバーが戻って来たとき戸惑うかもしれません。


その姿を想像すると口元が緩んだりするのでした。


現実にはお隣のドライバーではなく、母親がお隣の車のドアノブに手をやり半泣きになっている回数が圧倒的ですけどね。


それとは反対に、めったにお目にかかれない高級スポーツカーなんかを見ると子供の頃ほどではありませんが「おおっ」と目で追ってしまいます。


あまりに気をとられると事故の元ですから交差点が見えたら自分の道に帰ります。

素晴らしい組織の条件 働くおかんはみすぼらしい



沢山の人と一つ所に集まって同じ物を使用していると、身近な人だけでなく自分まで見失いかねない事態に陥りかねません。


どれが誰の物か、誰が誰なのか、時には自分が誰かさえ分からなくなるかもしれません。


そうなればもはやその他大勢にすらなりません。個別に選別されるモノではなく一缶幾らの内容物です。それは今風に例えるなら養分です。


これはこれで必要な食材ですが、彼らはそれと気づかず食う側に属していると思い違いをしたまま詠(うた)いつづけます。


それでも悲しいかな彼らは本能で理解しているのです。自分たちはもっとも大きな集団であらねばならないのだと。


できればうまいにこしたこともないと頑張るわけです。


ところが文芸とは残酷なものです。どれだけ頑張ってもダメな者はダメなのです。ドヤ顔になれるような作品には恵まれず「これはどうですか、あっはい、そうですか」と駄作を量産しつづける日常にいつしか照れ笑いが癖になってしまう。


それはそれで悪いこととも言い切れません。その世界にいること自体が場違いな人たちにとって同程度の力量をしめす笑顔を得ることは組織内でかなりの生存率を上げると思うからだ。


力ない者どもがひかれあい一つの集合体として混じり合って同化していく生き方は凡愚による選択肢としては正しい。


組織としても吸収していく数が多ければ多いほど、お互いを栄養分として食いっぱぐれはなくなるでしょう。


こうして「君も」「あなたも」これをワンペアとして、どんどん失敗を照れ笑いに変換したペアが増殖していく世界が構築されていくのです。


そこは溢れんばかりの笑顔に包まれたお花畑であることは疑いようもありません。ですが、ここに生まれるものは文芸でしょうか。


蜂が飛び蝶が舞う大草原に隙間なく小鳥たちのさえずりを響かせるほどの巨木がそびえたつ世界だろうか。


いいや、いやいや、そこは内職のおばちゃんたちが持ち寄った造花をまとめて突っ込んでおくために用意されたダンボール箱を並べておくプレハブ小屋だ。

ただ乗り上等! ぼくら私腹を肥やすんだ。


ぼっちゃんのスポーツカーが衆目の羨望を集めながら町中を疾走して行く。


つられるように、世間知らずのアホガキが後をついて行く。

  • 養殖場の管理者は従順かつ優秀であらねばなりません。それが世間の憧れであれば尚いいわけです。

先ずは組織が必要なので、これらを呼び込むが求められます。そこで活躍するのが学閥となるのでしょう。とてもいいシステムだと感心します。


これら学閥のもつ最大のメリットはいついかなる時にもトラブルにたいして瞬時に上から下まで代わりが融通できることです。


よって、いかなる問題が生じても心を痛めるふりはすれども実際は精神的ダメージを一切受けることなく対処ができるのです。


そんなふりしなくていい世界がもっとも好ましいのですが、これは本当に大きいと思います。


世間では「絆」とか恥ずかしげもなく口にしている者もいますが、そんなものがまやかしであることは常に椅子取り合戦の渦中に身を置く彼らの存在が証明しています。

  • 代わりが用意できる存在とは、データの保存先であって創造を期待されるようなカリスマではありません。

でなければ学習の意味や価値がうすれます。なんのために彼らは存在するのか、毎年量産されるのか、常にファイルとフォルダの代替え品を備蓄しておく必要があるからですよ。そんな替えの効く彼等ですが自己保身にかけては人並み外れて優秀です。


自分たちが如何なる存在かをよく理解しているのです。


捨てられたら最後です。


集団の長に収まると青臭い連中を取り込みながら捨てられないように独自の組織化が始まります。


彼らに必要な社会は横ではなく縦だからです。


それは自分たちを頂点にした縦社会であらねばなりません。



なぜなら、彼らが生き残るには自分たち秀才くんが才人にも匹敵するかけがえのない価値ある存在であると世間に認知させる必要があるからです。


その姿はまるで巨大魚の姿を模倣して捕食者を威嚇する鰯の大群のようでもあり、二本足で立ちあがって自分を大きく見せるレッサーパンダのようでもある。


そんな精一杯に背伸びした集団から伸びる影はどこまでも長くそして奈落のように深い。


そしてその影の大きさは往々にして本物以上に見えてしまうものなのだ。


これを見るに彼らを突き動かしている衝動が才能ではなく生存本能であることは疑いようがありません。


自分を偽り実力以上に見せて生きようとする凡才たちの往生際の悪さがあまりにも滑稽であるがゆえに結果として実力者の興味を引き、社会実験用のモルモットとしてその存在をゆるされているように思えてなりません。


そして彼らは見事にやり遂げたわけです。


「どこかの現代俳壇、歌壇。」これはいいものです。とてもいいものです。


ただ、肥大化していくだけであれば黙って見ていればいいのです。


「マグロを捕りすぎては駄目だ。」。「牛一頭に、必要なお水がどれほどか知っているか?」とあらぬ因縁をつけられ、ぼったくられる時代も近いようです。


それが牛や魚に見えるだけで究極、人は人を食らって生きているようなものです。


だったら、しょうもない奴から消化した方が世のため人のためになるのです。


無益な殺生なんてしたら成仏できませんからね、誰かが穢れ役を担わなければいけないのなら、容赦なく切れる者に託した方が万事うまくいきます。


いい仕事をするモノは大きくおいしく育つものです。


誰かの養分となるおまえたち、おまえたちは誰かの心の中で生き続ける。(かもしれない?)よかったな、おい。。。


今日も明日も明後日も走れ荷運びトラック。よく似た車両がずらりと並んだ駐車場そんな景色がわたしは好きだ。

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