追憶のかかあ天下
嘗て女流の時代と呼ばれた時期がありました。
今から思えば、実力(才能)をようする世界で、男だ女だと性別で区分していた愚かさを痛感しますね。(商業主義による戦略のひとつだね。)
まだ、知識量ではなく作品で実力者が評価されていた最後の時代だったのかもしれない。
以降のわたしは、今うんちゃら、かんちゃら書いている世界への興味を失ったので、実際どうだったのかは解らない。悪しからず!
才人不在。そして歌壇に大穴が空きましたとさ。
へえ
現代短歌は詠みより読みが重視される時代なんだね。わたしには真似できないけどさ。
「お偉い先生さまの栄華ここに極まれり」ですね。
つまり作者(大衆)より選者(知識人)の価値を優先させるに至ったわけですが、誰がそうした何故なったと問うなら、その責はこの二十年を生きたすべての現代歌人様という事になるのでしょうね。
残念ながら歌壇にも失われた二十年は存在したわけだ。
そうです。
わたしの大好きな、大好物な才能その出現がなかったという残念な結果、相も変わらず怖いもの知らずの下手糞が寄ってたかって歌稿らしきを積み重ねつづけた二十年であったわけですね。
さて、どうするべ?
世間様に対してさほど影響力をもたず、独り立ちできない短歌実作の量産は、下手をすれば歌壇全体を墓地としかねない墓標の乱立であり自称歌人様にとってはまさに死活問題。
死後評価される作がないのなら、いっそ後腐れのないよう賞味期限を設けて「いまを生きる歌詠みの絶唱」とでも騙る他ないわけで、それならビジネスライクでまいりましょうかとメディア界隈と意気投合。
無価値なものに価値を与える手法としては様々あるのでしょうが、一つに宣伝効果がいわれています。
宣伝効果を考えるうえで意識すべきは一部の有能な人材の声ではなく、その他大勢の中から聞こえる馬鹿の第一声であった。
- 普遍的価値を約束する説得力が必要だ。
- 馬鹿は自分で思考しない。
- 馬鹿は騙される事を望んでいる。
じいさん、ばあさんの下がゆるむ少子高齢化の進行と共に、共感や同情を誘う凡歌は溢れた。
小便臭い恋歌は廃れたように思うが、代わりに生活臭の抜け落ちた無味無臭の凡歌が漂う。
心地よい読みには、子守歌のような催眠効果もあるのかもしれない。
良い俳句を短歌をと求めるのは容易いが、誰の眼にも心にも一読で感動を呼ぶ秀歌、名歌を現実に生み出すのは並大抵では叶わず、ここでついに、おお、なるほどと誰もが聞けば納得、感動を呼ぶ解釈の必要にせまられ、ついに「詠み」と「読み」との逆転現象がおきる。
(ようするに、どちらもできない連中が圧倒的多数になっただけだろうけどね。文芸としては大失敗だろうけど、商売または思想運動への道としては軌道にのったということかな。)
それは、まさに彼らの大好きな革命であった。
駄句、凡歌を凛と際立たせるための援護射撃としての「読み」重視という流れがいよいよ勢いよく渦巻く歌壇。
「下手糞は革命の肥やしやで!肥やしやでー!来たれ下手糞われらが結社へ、われらの数が革命を生む。」
(下手糞や馬鹿はやさしくされる組織の一員になるだけで文化財保護法違反に抵触するんだね。)
こうして暗黒時代の支配者として白羽の矢が立ったのは理論武装に余念なくいかなる凶弾をも弾き返す防弾チョッキがごとき教養をまとった先生たちだった。
関連記事・共食いしようぜ
かかあ天下であった当時の歌壇内では実作者として見向きもされず奥さんの尻に敷かれていた日陰者の旦那さん方に陽が差した瞬間ですね。とっ、同時に
*現代歌壇に致命的な亀裂が入った瞬間ですよ。yoyo!
現代短歌教 我を讃えよ崇めよ跪け
(共産主義は宗教を認めないのでしたっけ?例えとして外れているが、馬鹿の書くものだし、まっいっか!)
読み重視の時代。それはそれは優しい時代がつづいたのです。
結果、彼ら現代の実作者が得たものとは何だったのか?
適当な作品だったのさ!
だってさ自分で完結させたら駄目なんだぜ!先生方が愛と感動を授けてくれるのだからね。
先生方のお声をいただいて完成です。むかしはお墨付きとも言ったと思うよ。yoyo
ようするに理屈っぽい作者が大量発生しているのだろうな。何かこう、新興宗教のようですね。
これは、まあ、でも上手くやりましたね。時代が必要とした感じをうけないわけでもありません。
有能な者からは忌避された挙句、個人の能力が劣化しているのだから、組織力で誤魔化す他ないわけですが、だからと言って才能に見放された主宰様が「俺が良いと言っているんだ。おらぁ」と恫喝しては敵意を招くだけで世間に対してまるで説得力が足りません。
そこで平等、反戦平和の理想のもと、一般人には美辞麗句を並べ立てることで先ず心優しい清らかな徳高い人と見せかけて、会員には上等の知識を披露することで賢人のように見せかけ作品を読む。
徳高い人や賢人の言葉に反感を抱くような人は多くありません。
とにかく定型で何かを書けば教祖(主宰様)が後付けで感動を付与してくれるわけで、歌力は問われないのですから、そりゃ信者(作者)の数は増やせますね。
ここまでなら結社ビジネスの成功モデルとして良かった。歌作は信頼のおける教祖と信者の共同作業で完成するとしておけば良かったのにと思う。
だけど、信者が「読み」の布教を始めちゃったよ。yoyo!
「何様なんだ、こいつ?」が巷に溢れてしまったわけです。
これはいただけません。だって、この子は何様でもないのですから。
・みなが思った(無駄口はいらない。実作で感動させてみろや!)
そのくせ、このての輩は無駄に元気が良くて張り切っています。
いわゆる無能な働き者とされる方のことですが、批判なんて誰もしていなくても批判と受け取ったら、それはもう批判です。もう我慢なりません。ウキー!
カミツキガメは竜宮城より処分場へ
彼らに共通して言えるのは「自分の価値を理解していない。」事です。
先ず自分を高める事が先決で、最優先されるべきなのに、他人の論。他人の作にのっかって良い気でいます。
そのくせ発案者であり、拡散者でもある主宰に対して不平不満が多く、批判的であったりするようです。
あのね、相手様(作者)に好意的でさえあればなんでも受け入れられると思っているなら大間違いです。(たとえ一円でもブログ広告収入などある場合は危険な問題をはらんでいるのではないの?後進に悪影響だよ。)
粘着質で攻撃的。それでいて自尊心は人並み以上で致命的に興味を抱いた世界で必要とされていない。
そのような存在であるのか、そうでないのか、足下から見直すべき方はおられると感じますね。
だって「あなたなんて相手にして、なんのメリットがあるんだよ」と嘆きたくなるレベルのヒステリーに粘着され、悪魔扱いされてしまうのは誰だって嫌でしょう。
「読み教」信者様は、「出来の悪いかまってちゃん」にわが身を貶めないためにも、触れられる側の気持ちを理解できるようにならなければいけませんね。
とにかく、みなさまカミツキガメには用心よ。yoyo!
立派な組織に所属していて凄い事を成している自負があるのなら底辺なんて無視しておけばいいのに、気になっちゃうんだな、これが。
熱源感知能力を備えたミサイルがごとく自分を批判した悪者の精神、生活などの全てを破壊目的のためにターゲットを追い続けます。
ここに闘う歌人様が誕生しました。
「それでは本日のわたしの推薦歌です。」
↑(世間様に対する宣戦布告!)(あーあ、やっつちゃった。)こんな風に思ったのは、わたしだけだったのだろうか?
それ!お手付きだから!!
「読み」の価値は何より、諸条件を満たした少数の選ばれた人という希少性と、その知識量による有無を言わせぬ防御力(ハイ論破なんてされたら目も空いていられない。)があるからこそ信頼を得ているのに、一番やってはいけないはずの我欲が強く、好戦的な人格者とはほど遠い、信者にあるまじき性質の人物がよりにもよって真っ先に手を出してしまうのだから困りものです。
彼らは学歴や社会的地位が教祖様として見合わなかっただけで、見る者が見れば教祖様の本質をさらしているようなものですからね。
老婆心ながら、これは「読み」を支持する無名の執筆者と共に野放しにしていてはいけないと思いますけどね。
歌壇を牛耳るみなさまと言う事で、一応ミサイルに例えてはいますが、実際は駄菓子屋にころがる癇癪玉(かんしゃくだま)がお似合いだよね。
人の行き交う道すがら撃てど、撃てど誰の心も射貫けずに、そのうち騒音苦情が広がり世間の怒りを買うだけでしょ。
- 左派には伝統芸として有名な内ゲバと呼ばれるお仕置きシステムがあるそうなので、今後は厳しく躾ていくべきでしょうね。
わたくしごときがなんですが、教祖様には少しばかりの同情を禁じ得ません。
- おいおい、だから互助会と揶揄されるのにね。同程度の者が並列に褒め合う行為は高め合いではありません。
- それは慰め合い、誤魔化し合い、下手すりゃ足の引っ張り合いです。それを繰り返した結果として大切な説得力(読者に攻撃の隙を与える。)を失わせてしまう愚行に他なりません。
どうぞ、殺しの報酬 褒め殺しという名のバトルロワイヤル
「読み」の時代だから多種多様な持論が生まれるのだと思い込んでいそうですが、そうではありません。
下々に持論など不要なのです。先生以下みな同じなのですから必要にして求められているのは先生マンセーのみ。
- 歌壇においては、先生以下の駄作の量産と「読み」への絶対的服従だけが存在理由であります。
先生のご所望は革命です。
「下手糞は革命の肥やし」何を忘れてもこれだけは忘れてはいけません。
それではみなさん、もう、わかりましたね。その作品ですが・・・・・
- 必要なのは唯一先生のお墨付きだけです。
- あなたが触れるとお手付きになるのです!
*ところで、わたし高学歴の共産党員なら出世できたと思いませんか?思いませんか?はい、そうですか。
歌壇は何を失ったのか?作品の質!でしょうね。
当たり前だよね、先生より上手な作品なんて読み重視の時代には危険因子だもん。
何が危険なんだって、それは実作に解釈が追い付かず負けてしまうからですね。
現実はこんなもんです。交尾でポン みゃみゃおみゃおみゃお恋文ポスト
「読み」という、ジャンキーレベルの幻視、幻聴、幻覚、幻想を語り尽くした挙句、実作者から(狂ってる)と思われる事もしばしばなのですが、彼らにとっての現実は実作者の笑顔だけです。
知識人であることが、むしろ彼らを狂気へかりたてるのでしょうか?
彼らの見ている笑顔は、彼らの「読み」に対する返礼というより、彼らへの興味と不信感からくるものも多数あるのです。
まこと笑顔は恐ろしい。
語れば語るほど誰の眼にも明解な力量差が浮き彫りになるのです。
やがて万の笑顔は消えてなくなり、具体的な現象として、このブログでは、わたしの口癖のようになっている「めんどくせえ、うぜえ」の声が解釈に対して合唱される事態がおきると言う事です。
怖いですよね。その声がいつしか、「うそくせえ、とりあえず自作をひねってみようか」の大合唱に変化し、当たり前のように、実作者としての力量が問われはじめて、結果あたり前のように選者不要論が歌壇に蔓延する事態を招くのですから。
そう考えてみると、なかなかどうして、「読み」とは勇気のいる作業です。
ー がっ、選者様もさすがに狡猾です。基本自分に心酔している。または思想を共有するカワイイ子猫さんしか相手にしません。
結社では、まあ当然ですが、新聞、雑誌の選なんかも、わかりやすいですね。 これは選者様特権のひとつですから責める必要もありません。ーあらためて「読み」についてですが、これは、やっぱり誰にでも許していい事ではありませんね。
人様の心を読み解き公に晒そうなんて行為は本来卑しい輩のすることで、よほどの聖人か、聖人を真似て驕りたかぶった狂人かいずれかの所業ですよ。
すくなくとも、ネットなど、不特定の公にたいして「読み」を披露する立場の者には個人的な責任と自覚をもたせるためにも、結社所属の一会員などという保護された立場としてではなく、なにかしかの代表となるよう促すべきです。(体のいい追放とも言うのですけどね。)
君の心は何テラバイト
「誰の短歌(うた)でも、どんな短歌でも誠心誠意をもって読み込みますよ。」
現代歌人様。なんて心優しい人たちなんだ。すごいよ、なんテラバイトのやさしさなんでしょうか?
CD世代のわたしが、その歌集に抵抗感を感じるのも当然ですね。
CD¥3200円時代 3割超えたらがぜん買いたくなるのです
脳内で虹色の円盤を廻している程度のわたしでは、理解力も足りませんが、そもそもそんなに情け深くなんてなれません。
畜生道に堕ちたって無理です。否むしろ畜生界の住民だったのかもしれません。
はるか昔のできごとでございます。
こんなわたしとは知らない方から、謹呈本とやらをいただいた経験が一度だけあります。
わたしも若かった。捨てるのはさすがにしのびない。
しかし興味がない。人にも差し上げられない。売れない。
これが世に言う謹呈三重苦と呼ぶものでしょうか。
おい、こら自費出版屋
人の迷惑を少しくらいは考えましょうね。
たった一度でも嫌だったんだ。
著者に作家としてのプライド「さあさ今日から、あなたも職業作家さんの仲間入り。」くらいは刷り込んであげてくださいよ。取るに足らない方なら尚更お願いします。
作者の心意気を芽生えさせる。これは、自費出版屋の義務だと思いますよ!
無料で配るな。欲しい人は無理をしてでも、お金をだして買いますよ。
わたしに謹呈本が送付される日は二度とおとずれる事はないでしょうけど、よろしくお願い致します。
手垢まみれで、ぼろぼろで、尻ポケットに突っ込まれた文庫本。
旅のお供はやっぱこれ。