短歌の評価は自分で決めろ。短歌の価値は読者が決める。

2017年7月29日

歌壇 現代歌人様




殺しの報酬 ほめ殺しという名のバトルロワイアル


似非評論家の量産は似非作家の量産につながる。その結果として読者はバカになる。


この状況は心ある者が見れば地獄絵図です。


出版屋とズブズブの先生が「これは俳句だ。短歌だ。」とべた褒めすればバカは購入してくれるだろうか?


買わないよね‼


だって相手はバカだから。バカが「バカ、バカ」と連呼して申し訳ないのですが、わたしは思う。


ただ、分かり易いというそれだけで無能無才の凡作を評価しているようにみせて、才人による流麗な名作が理解できないバカを量産していくなんて自分の首を絞めるだけでなく歌壇を巻き込んだ自殺行為でしかないのではないかと。


バカなんて集団の中で希少種だから愛されるのに(本人談)、巷に増殖させてしまったら社会悪、社会負担の類にしかならないでしょう。それでもバカが欲しいだなんてことなら、現代歌壇が如何に弱体化しているかの表れでしかない。


それはつまり現代歌壇を構成している現代歌人様の質が超絶劣化していることをも意味する。


バカを相手にしか自分たちの存在を維持できなくなっているのである。


尚ここで言われるバカは学力をさして言うものではなく、恥知らずをさして言うものである。

似非評論家が推奨する似非俳人、似非歌人の売れない句集、歌集の購買層


大御所といえども知名度に欠ける現代俳人、歌人様である。その読者のほとんどは会員一同含めて一族郎党ということになるのでしょうね。


だとしたら、これってもしかして師弟、新参、古参の隔てなく、全員カテゴリー「バカ」に入るわけだけど、どうなのこの結論は間違っているのかな?


経済的に困窮した哀しい現実しか見えないのですけど。

浮かれる現代歌壇 先生おたわむれもほどほどに。


知識を持つ才人は後付けでも完成できるが、才能を持つ知識人は後から創れない。


賞の価値を見ていてもそうですが、純粋な作品評価以上に肩書偏重でアッピールしていたマルチ効果が希薄になってしまい無理矢理作り出していた重々しそうな世界が実は中身(才能)がない薄っぺらいものだと誰の目にも透けて見えてきてしまっているのですよね。


ハイここで一つ質問です。歌壇は学者がつくるものですか?それとも歌人がつくるものですか?


歌人として語られることが少ない歌人が歌壇の重鎮とかね、ありえないでしょう。


ふつうはご本人がそんな行為は恥じていて、そんなアッピールはむしろ才能を逃すと理解していそうなものなのですが、歌人ではないからわからないよね。


文壇の一角とされてきた俳壇、歌壇への敷居が低くなったと言えば聞こえはいいが、見たまま言えば俳壇はともかく実力者不在となって久しい歌壇はとっくに瓦解しちゃっつてんだよな。


お遊戯集団かな?


そんな哀しい集団に権威を取り戻すために生まれた乞食作法がある。


「読み」である。「読み」なのである。


捨てられていたような食材でもシェフのハッタリとスパイスの効いたお料理次第で商品になりまっせ。みたいなね。名声、権威、財力など社会的特権をフルブーストさせて売れないものに価値があるように語っては売ることで選歌料という利益を得る中抜き商法のひとつですかね。


わたしのイメージとして対象作品の解説ではないのですよね。多様な解釈の饗宴を楽しむと言うのかな?


投稿歌を媒介にして「読み」提唱者さんや、その支持者の方の思い込みを一方的に披露していくなかなか剛腕な選評作法である。


一読者の読書法としては楽しいと思いますけど、作品の真意と言いますか本意はどうでもいいっちゃどうでもよくて、その詠まれている背景や材料から推測した推理をひたすら探求する。一種のプロファイリングのように受け止めています。


ある意味その評が間違えていればいるほど作者に優越感を与えてくれる選評作法とも言える。


自分を犯罪者に例えるのもどうかと思いますが、まんまと騙してやったと気持ちよくさせてくれそう。


ようはプロフィールを隠し背景と材料をいじれば作者側の意図で評価をいくらでもコントロールできそうな選評作法なのである。


「人に歴史あり」である。個人史に頼ればそりゃ間違いも犯さず楽できる。


だから彼ら「読み」推進派の大半は投稿者の経歴を必要とする。(ドヤ顔で語ったはいいが、作者から素っ頓狂な妄言を吐いているよとバカにされるのがヤダからさ!)


だが甘えるなと言いたい。


だって「読み」の楽しさって、どこまで妄想を膨らませられるかではないのと思うからだ。


作者からヒントをもらってどうすんだよな!


おそらくこれが「才能が無い」と一般読者からも指摘を受けるような人ができる限界なのだ。「見えない物を見る」とかたまに気張ったことを書いている大人物(ぷっ!)がおられるが、どうやったって見えない人が選をするためにひねり出された選歌方法こそ「読み」だとわたしは思っている。


だって見えてりゃ、権威をかさにああだこうだと理屈をこねたり蘊蓄を披露したりしないでそのまま見たまま感じたままを口にすればいいだけだからね。


できる者とできない者との差はどうしたって埋めようがない。


簡単にわかってほしくはないんだけど理解はしてほしいって、わがままな作者心理が働きまくっているのが短歌ではないのかな?


読み込もうとしている時点で読者としても人としても傲慢であるし、そもそも歌人として存在していることに疑問を感じる。

曖昧な世界に逃げ込む先生たち


「読みと詠み」実作者として選者として場面によって使い分けはあるにしても、これは常に共存する二者であってこの二者のせめぎ合いがあってこその短歌があるわけですから歌人としての才能に恵まれている人であればこれを分けて生きようなんて発想はまずありえない。


随分むかしの話になりますが、図書館にてとある方の詩論を拝見する機会に遭遇して今に忘れない一文があります。


「真の詩人とは実作と評論が共存している者」だと書かれていました。


詩人という一つの器に双方分け隔てなく収まっていることが重要でありそもそも分割などできようはずがないと言うわけです。


イメージとして欲望と理性の関係かな。


客観性を無視して思いのままに書きなぐった文章に情緒があるとはとても思えないもんね。


乱暴なだけで品がない。それは詩とはとても呼べない負け犬の遠吠えに等しい。


顔があるから媚びを売る。同様に歌論としては熱がなく飼い犬のように尾を振るだけになる。


どのような場面においても立ち位置は変わらず創作者であるはずだとわたしなんかは思うわけですが、場面によって器用に使い分けられる顔があるとすれば、どのような生徒や保護者にも適当な対応ができる先生をおいて他にはいないのではないだろうか。


もしくは商人。


馬脚を露すとまでは言わなくても、現代歌壇には先生が多い。

わたしは彼を奇跡の人と呼んでいる。奇跡のご一家に幸あれ


実際その作品を拝見すると下手糞なんだけど、そんな下手糞な素人さんにさえコケにされて裁判沙汰一歩手前にまで及んだ大先生ですが、それだけに自作に力を注いでいただきたいと願っています。


「読み」にこだわりがあるように同じ熱量もしくはそれ以上の熱をもって「詠み」にもこだわって歌人としての完成体をお披露目していただきたいです。


勿論その作品の評価は取り巻きからの評価ではなく世間からの声であってほしいと願うばかりです。


なかなかいませんよね。というかおそらく現代歌壇史を振り返れば初めての事件ではないだろうか?素人に下手糞呼ばわりされてモノホン弁護士参加で本格的な裁判沙汰になりかける大物歌人なんて。


めちゃくちゃおもしろい話題なのにどうして後継者(インタビュー記事大好き連中なのに)が口を閉ざしているのか理解に苦しむ。短歌総合誌にしても、その顛末を書かせたら売れそうなのにヘタレだなあ。


悪意からくる想いではなく純粋にものすごく興味があります。


お年を召されるとみなさん口をそろえて日常のありきたりな一瞬に見る幸福を平易な文体で表現していくことに喜びを感じますとか、さも創作を極めたように嘯(うそ)ぶいていますが、わたしから見ればふざけやがってカスです。


そんなカスと足並みそろえることなく奇跡の歌集を発表してもらいたい。

先生の居場所は教室ですよ


「読み」にこだわるのなら当然、自身の「詠み」にもこだわっていただかないと創作者としてバランスが崩れて見えてしまいますが彼ら先生が意に返すことはありません。


選者なんかになると創作は申し訳程度になって論者になる傾向が強い。


口八丁手八丁が大事な商売です。わからないわけではありません。実作で食っていけない自覚もあるのでしょう。それでも歌人というステータスは捨てきれない。出版屋も文化人コメンテーターとしてあわよくば使いまわしたいと考えているでしょうしね。


双方の利害が一致しているのです。


しかしこうなると創作者の生きざまというよりある種の権力闘争の様相を呈してきますね。


だってそうでしょ、一方に特化しようとすることで創作者である自分は否定することになりますからね。


次のステージは先生同士での蹴落としあいです。

感じたいからコミュニスト


出版屋に気に入られて一度選者の椅子を勝ち取ってしまえばしめたものです。


投稿者すべてが下々の者になるのだから思い上がっている君には心の負担がまるでない。


そのくせ連中はバカのように慕ってくるのですから笑いが止まらない。


インテリコミュニストならお漏らしするほど痺れる環境なのだろうなと想像する。


今や才能より思想が優先される時代ですからメディアが用意した論壇となれば適材適所と言えなくもないところがなんともはや、才能ぬきにたまたまそこにたった凡愚が下手したら自分よりすぐれた他人を見下すことによって仮想大歌人に近づいていくわけですからたまりませんね。


メディアによる才能殺し。


そりゃあ誰だって赤く染まるわ。

3分間クッキング 短歌評なら時短やで


さて、そんなこともあったっけと、めでたく先生となられた彼らの元へは飯の種(投稿歌)が持ち込まれるようになりました。


創作者と言う自分を優先していてはとてもじゃないが相手にできないほどの駄作の波が押し寄せてくるのでしょうね。


そのハガキなりなんなりをかきわけていくわけですが赤潮の中を全力でクロールしているようで嫌ですね。


望んでそこにいるのでしょうからもともと赤潮が快適な生活環境なのかもしれませんが、それでもこの一点についてだけは文句なしに先生を尊敬できます。


わたしなら一日そこに浸っているだけで精神崩壊してしまいそうです。


これまで代替わりを見るたびに選者の威厳が失われていっているような言い知れぬ喪失感を感じていましたが、もはやそこに必要とされるのは才能ではないことはあきらかです。


投稿者には申し訳ないのですけど自作ファーストこそ作家の性分なのだから、見ず知らずのどうでもいい奴の作品などいちいち時間をかけて面倒なんて見ていられるものではない。


選者に創作者としての資質が強く出てしまっていれば優先されるのはどうしても自分になってしまいますからね。(まあ、そういう人は経済ぬきで作歌に専念しているからそもそも選者にはならない。)


だが、そういうどうでもいい奴の作品でも歌人として生活していきたいために先生は「読む」。


非常に矛盾しているとは思わないかね?


「同病相憐れむ」このような関係性が現在の歌人の繋がりのような気がしてなりません。


選をする者される者と聞くと双方には圧倒的な力量差があるように感じられますが、実際は創作者ではない先生と投稿者間の力量差は拮抗していてほぼないのでしょう。(逆転現象がおきているとさえ思うけどね。)



選者と投稿者の関係性なんてものは作品を介した才能同士のつながりというよりは病を持ち合い弱った心を慰め合う病人同士の関係にちかいものなのだ。

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