コンテンツは劣化しない。駄目な奴らが気取ってる。

2018年7月30日

歌壇 現代歌人様




バブリー。 アナウンサーはシャボンのような嘘を吐く。


つまらないと思う日々をどのようにお過ごしでしょうか?


つまらなさの原因のひとつには、日常を豊かなものとするはずであったコンテンツの劣化があります。


映画を観てもつまらない。音楽を聴いてもつまらない。本を読んでもつまらない。俳句、短歌はなおさらつまらない。そのくせ、どの業界からも聞こえてくるのは「流行っている。」の声。


ネット上では、おじさん、おばさん世代を小馬鹿にしたメディアの「流行っている詐欺。」と揶揄されていますし、まあ実際それを証明するかのように流行っているはずのコンテンツが日常生活の中で話題の中心になる事はほぼありません。


「流行っている詐欺。」この言葉を知ってから、その言葉の根拠を追っていけばいくほど、如何にわたしたち世代がメディアに操られていると実感させられたことか。


「・・・の時代。」このフレーズにのせられて、本来の自分を見失った人生を歩む人は少なくない。


そんな時代はもう古い。」とか、アカい人たちの常套句なのに、すっかりのせられちゃいました。


ぬぉー、朝シャンさいこー。バブリー、今日も一日はじけてやんぜ。



「馬鹿」と言ったら偽者と思え。



それではなぜ、既成のコンテンツがつまらなくなったのでしょうか?


メディアにより今もなお懲りずにつづく「流行っている詐欺」の多用もさることながら、結論は「つくり手がつまらない。」それだけのことです。


そのつまらない作り手と駄作を換金するがためメディアは日夜マス〇タベ〇ーショ〇ンの快感を知ったお猿さんのごとき所業に励むのでありました。


「天才」「奇跡」やすやす使えないであろう単語が飛び交うメディア。そこから発信される電波はまるで魔法の空飛ぶ絨毯のように、次から次へとボンクラをすくいあげて、さも魔法使いのように見せるのさ。


きみたちは気づいているかい?魔法のほうきを飛ばすには乗りて自身の呪文が必要だけど、魔法の絨毯を飛ばしているのは呪文をあつかう魔人なんだよ。


メディアが売り出す奇跡の天才だって?フーン、そう、フーン。


「それでも俺は売れたいんだ。」そんな創作者に対しては同情すべき事情が多々あったとしても、「それは、あんたの個人的な事情だ。」と突き放されるのが現実ですね。


だからほとんどの創作者は泣き言を口にはだしません。


ですが、まだ泣き言を口に出している方が、はるかにマシな発言を創作者側から発信される事が稀にあります。


「俺の作品がつまらないのは、おまえが馬鹿だから。」とね。


それ違うから。


「つまらない」と言われて「おまえが馬鹿だから」と公言するのは、作者側の敗北宣言でしかありません。


いくら頭にきても、並みの創作者でさえ、このような言葉は吐かないのが普通です。


そんな暴言を感情のままに口にできる人は、ある意味とても幸せな方でもあります。


彼あるいは彼女は、その生涯において創作者としての生みの苦労を知らないまま人生を終えられる事でしょう。


はい。これこそ定番の転落人生ってやつですね(⋈◍>◡<◍)。✧♡

おたまとフライパン。明日のメニューがガリ勉にはわからない。



例えば俳句、短歌を読むにはたしかに、専門の知識と、作品に関連するテーマについても精通していなければ正確に読み解く事はむずかしいでしょう。


ですが、それがいきすぎたら単なる知識の押し付け、知識の強要ですよ。


正確に読まれる為に膨大な予備知識を必要とする。=駄作なんだけど。


つまりね「読者に甘えすぎ」。


昔どなたかが書いておられましたが、「共通認識」でしたかね。戦争や被災、老々介護など社会と一体感を共有できるテーマが重要とかだったっけ。


共有体験それさえあれば表現の難解度なんてあってないようなものだとか、なんとか。


例えば、溶けたグラスを見れば直感的に原爆をイメージしてしまう、そんなトラウマを抱えた社会にあっては、比喩や暗喩なんていう技巧は技巧ですらなくなる。


なぜならそれは現実として沢山の人の目の前に存在しているのだから。


戦争を知る世代であり前衛短歌の旗手と呼ばれた塚本邦雄氏の代表歌数首なんて一見して背景がわかりやすい作品ばかりではないの?


皇帝ペンギンしかり、馬を洗わばしかり、兵士の目しかり、(わたし如きが使ってごめんよ塚本邦雄さん。)


現場にも存在せず、実体験を経ていない輩の語っているところは結局「技術論」もしくは「机上の空論」なんだよね。


背景(物語)が読めない(見えない)まま、見たことも触れた事もない道具や使用法についてくどくど語る。


建築設計士の兄さんなのか、解体屋のおじさんなのかは知らないが、つまんない奴が、未知のものについて知ったかぶって熱弁をふるったところで、結論は「つまらない。」に落ち着くもんさ。


だからと言って表現の単純化が好まれるわけではない。実際「あ〇ひ歌壇」で拝見した被災詠なんて言っちゃ悪いがほぼ駄作。(わたしの好みとして技巧が無いって意味でだよ。)


これはこれで共通体験に頼り切る技巧を無視した甘えだわな。


ネットで目にした「あるある短歌」がこれ↑に該当する。



悲惨な現実をうったえるだけなら詩心は不要さね。なのに詩形を選択しているじてんで選択ミス。(なにかしかの卑しささえ感じる。)


だからこそ震災詠や戦争詠でいいものは特別いいのだろうね。まあ、人はとんでもない目に遭遇すると生きながら魂が抜けてしまうとか聞いたことがありますし、なかなかお目にはかかれないのが現実。


ー 朝。世界の始まりを知らせるけたたましい音を響かせていたお玉とフライパンが明日の料理と人生を作り出す。


明け方遅くまで「短歌入門」を読みふけっていたガリメガネは歌人になった夢をみながら熟睡中。


家族は誰も起こしはしない。


目覚めてから食べるのは晩御飯。夢を見るための栄養。


「短歌入門」を読むガリメガネ。


明け方遅く眠る。 ー


0と1の羅列でさえ景色になり音声になる時代に、背景として表現されない文字列なんて情感の欠片さえもないのは歴然でしょう。


あきらかに叙景詩(写実)としては死んでいる。わざとでなければ、ここで短詩系に向いていないと自覚するべき。


それなのに~それなのに~相手の資質も考慮しないで選者は語る。


だってさ、目の前に迫って来る背景に、あれもこれもなんて不要でしょう。


ところが見るべき背景が見えないものだから、おせっかいにも選者様が
見つけ出せない作者を置き去りにしたまま、妄想を軸にして都合のいい背景を構築してしまう。


そもそも駄作だから選者様を責めるのもなんだが、オリジナルの物語も何もあったものではないよね。解説者が自分に都合のいい人工島を作っちゃっつて誰か拾ってくれと海原(と言ってもお仲間がイモ洗い状態で溺れている海水プールだな。)に内容の無い空瓶を放り投げては、逞しく頼りになる人間を演じちゃっつているんだからさ。


下手糞って奴は干からびていく鰹で、その駄作は鰹節ってところかな。


まいどまいど、選者様はいい出汁をとって美味しく暮らしているんだろうねえ。


ちなみに小難しい解説を否定しているわけではない。世に優等生と劣等生がいるわけで、できる子にはしっかり順位があるのだから、小難しい解説はとびっきり賢い主席が代表で語ればいいよねと思うの。


あとは、同じ組織内で同じ事を習って下位に甘んじるカモなんだから、外野AtoZは「以下同文」絞めればいいよね。


カモは食わなきゃ駄目。放し飼いなんてもってのほか。鳥インフルで鶏舎壊滅よ!


これはもう一般人の懐にまで響く経済的損失です。


高級料亭(毎回とんだとばっちりでかわいそう。)でエリート様が悪さとか言いますが、カモは食え、どんどん食えとわたしは思う。


ズズズズ、ズズズズ鴨鍋うめえ。←これで良し。


関連記事・チキンレースもよろしく。



正岡子規もヘチマのかげで笑っているわ。WWW



例えば、千三百年前の和歌を知識だけで論破とか、そりゃ学者さんの仕事ですわ。



俳句、短歌は詩ではない。」と言う人がいて、逆に怒る人もいるわけだけど、まあ、「俳句、短歌は詩ではない。」と言わせているのは、怒っている売れない現代俳人、歌人様なんだよね。


理屈じゃないんだよ!


売れない現代俳人、歌人様ってさ、詩人、芸術家、文化人カテゴリーにいる存在じゃなくて先生枠でしょ。


短歌論を語ってくれる先生。そこで止まってんのよ。売れねえし。


*馬場あき子女史も、俵万智女史も、売れてから教師を辞めちゃっつたでしょ。


わたしご本人ではありませんので、退職された本当の事情は存じ上げませんが、売れた。という経済的な現実が退職を後押ししたきっかけにはなっているのではありませんか?


(上記お二方には、わたしごときがお名前の使用ごめんなさい。)


勿論、今と言う時代にあっては、売れた即退職なんて行動は軽率なただの暴走でしょうけど、今と言う時代以前から短歌をたしなんでいた方はね、堅実だった。いやいや置いてきぼりをくらったランナーですよ。


えっ、ランナー?


ふふふん。野球ではヒットを飛ばした選手だけが出塁するわけではないのです。


そしてそれは他分野にあっても通用するルールなのです。


フォアボールがあります。これに該当するのは君だよ君。いやあ、坊ちゃん立派になられましたなあ。おやおや、お嬢さん新作を楽しみにしておりますわ。そんな方ね。


でっ、今回の本命です。こりゃずばりデッドボールで出塁された方ですね。


ヒットを飛ばせる技量なく、始めからデッドボール狙いで「当たった。当たった。ねっ今、当たったよね。」と出塁するためにはなりふりかまわず審判団にモーアピールできる人です。


まあ、誤審といえば誤審ともいえるのです。サインを出したベンチ。当てたピッチャー。読みを外したキャッチャー。


誤りだらけの出塁をゆるしてしまいました。


そこまでして運よく出塁したまでは良かったが、ホームにもむかえられずに、勝利の味も味わえずに、プロにもなれなくて、若い連中を相手に「俺らが若い時はなあ」とかなんとか、コーチ気取りでいきっているおっさん、おばはん。


これがね、先生。短歌の先生でございます。


断っておきますけどね、例外はありますよ。これを読んで笑う人はいても、まさか怒る人はいないと思いますけど、そんな人がいたら、このおじちゃんも、なかなか見る目があるじゃないかと褒めてよね。


俳句、短歌は詩ではない。おこらないでよ、らん ねえちゃーん。



結社ですって。いやいや違うでしょ。ほとんど短歌教室。だって、ほら、君らが幅を利かせているじゃない。


作品よりも自論第一ぼくはなんでも知っている主義である君らの存在が証明してくれているじゃん。


ありがとう!


だからさ、「発信源だよ。あんた。」


賢さを自負するなら、関わってくる人間がどんなに馬鹿でも賢くしなければね、関わってくる人間をことごとく馬鹿扱いする者が、本当に賢い人間だとは思えません。


口を開けば、「ばか、ばか」と連呼する馬鹿量産機なんて世の中の人からすれば迷惑このうえないわけで歓迎されませんよ!


馬鹿は一代。キチGUYは末代まで遺伝する。(かもね?あくまで仮定のたわごとさ。)



  • 賢い人間は馬鹿をつくらない。
  • 馬鹿は侵略者がつくるそうだ。


自身の出来の悪さを他人に責任転嫁してはいけません。
相手が馬鹿なら、尚更それはだめだろ「禁じ手」だよ!


  • そもそも「つまらい」と言われたら、「おもしろく」してやろうと自分に向き合うものが創作者ではないのですか?


ところが他人に、それも馬鹿に多くを求める。


おじさんなどは、↑のような方に対しては孤独死せえや!としか思わないわけですが、市井におられる俳句、短歌好きの人には、お人好しが多いですね。


ゲフゲフゲフこれ以上は、うたえないでごんす。


↑あなたの先生は↓


どこテレビのお代官様なのですか。



現代俳壇、歌壇にこんな指導者が沢山うごめいていたら、そのうちおこるな「乱」。


宜しければあわせてご覧ください。↓


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