一等だけでいい。一等以外はカスだと言うには理由があるのだぞ‼
そんなあなたに問う。
えんぴつころころで試験に臨んだ経験はありますか?
わたしは試験での経験はありません。なぜなら答えに迷うほども問題を理解できないアホだったからです。
しかし、試験以外で一度だけ、えんぴつころころを試しました。
それは、サッカーくじの「toto」です。
今となっては証拠の画像も無い(ネット銀行の履歴にあるのかな?)のですが、えんぴつころころで「当せん」←(これ、わかる人にはわかりますよね。)きちゃいましたよ‼
おじさん、やっつちゃいました。
(もう、働かなくてええやんけ。)思いましたよ。思いますよね。で、肝心なのは何等かです。
システム上、親の総どりじゃないですか!だから、一等以外には考えられないわけですよ。
どうか、おじさんの願いを叶えたまえ。そう念じながら、そして同時にぷるぷるしながら、「えいっ」。
うそやろ?
3等380円。(たしか、380えんだったと思います。)
そんなに高額ではなくても、せめて五桁万円。あわよくば六桁万円はあるかも、たとえ3等でも11試合のうち09試合も的中させればその価値は十分にあるだろうと、ライバルが少数である事を同時に願いつつ振込金額を見たわけです。
うそやろ?
こんなん当たらんほうがマシやんけ‼心の底から唸りを上げて湧き上がる怒声。しかしボリュームは小。
クッソむかついたと同時に、まだだ、まだ運はつづいていると欲ボケしたおじさんは速攻その当せん金でBIG一口(ちくしょう)を買ってやりましたよ。
ええ、ええ、買ってやりましたよ。買ってやりましたとも。
その後の経過だ?知らねえよ。
それから数年後、おーおー久しぶりやのう楽天口座。ところが、パスワードだかなんだかよくわかんないけど、セキュリティ強化の煽りをくらって自分の口座にアクセスできなくなっつちゃってさあ。
もう、なんか連絡をいれるのも面倒で放置プレイ中。
天罰なのか天運なのか、こころの友よ今どうしてる?
このおじさん、こどもの頃から町内のお祭りでの福引きや、デパートのしょぼいくじ引きとかで2等3等を引き当てる事はままありました。
しかし、小さなこどもが両手で抱え込まないと割ってしまうような一升瓶を貰って何がうれしいでしょう。
(おっさんだって神社の境内から「おとうさんがよろこぶぞ。」と言っていたじゃないか。そりゃそうだ。おれ、ぜんぜん、うれしくなかったよ。)
賑やかな屋台の列の中で友だちは片手にリンゴ飴、片手にアメリカンドック。そして小さなわたしは両手いっぱいに抱えた「鬼殺し」。
なにが当たりやねん?くっそ重てえし、こんなの罰ゲームです。
以後、友人間での交通事故率(主にアルカイダ。)ダントツの一位というゴールド聖闘士クラスの華々しい戦績を残しつつ尚、神様から嫌われているおじさんなのでした。
そのような日々を暮らしていくなかで、いわゆる中二病と呼ばれる青春の病に罹患していた頃でした。
内心(俺って、天運を授かってるんじゃないの?)なんて思っていましたよ。
「何度か死にかけているんだよなあ。運が良いのかなあ?あはははあん。」と、さりげなさを装いつつ、ある時友人Kに中二病をさらしました。
すると友人Kは、お察しとばかりに「運の良い奴はそもそも不運に見舞われない。」と、その返答の疾きこと光回線の如きでしたね。
さらば中二病。おじさんのそばには心の名医がいました。
平成最後の秋の夜。ちょっとおセンチになっつちゃっつて、こころの友よ、今きみをおもふ。
生まれながらの敗者
創作に勝ち負けは無いと、おっしゃる方は大勢いますが、そういう人たち自身が創作者であるのかというと、そうではないわけです。
おっしゃっている事は、おおむね正しいのだろうと思います。
理由のひとつには自分独自のものを創造することが創作であり、他者の模倣をすることではないからです。
競う相手は他者ではなく自分。
他にも理由は沢山あるのでしょうけれど、それについて語りたいわけでも、その話題に特別興味があるわけでもありません。
それを主張している方に興味があるのです。
「あなた創作者ではないでしょう。」このように思う方から、「・・・はこうあるべきだ。」発言をされますと、世間を納得させる作一つないあなたが発言をする事でその論評も含め関わるあらゆるものを貶め、説得力を弱めているとなぜ理解できないのか?と憤りを感じるのです。
このように、そこにいるべきでない輩がいて当然のような顔をしてのさばっている状態や環境が健全であるはずがないのです。
健全化を図るとなるとこれを黙らせるなり、駆除する必要がうまれるのでそこには勝敗が生まれます。
生まれながらの敗者。それが文芸に勝ち負けがないと主張する輩の正体です。
その世界に興味をもたなければ、勝ちはないが負けも知らずに過ぎた人生だったろう。
言うように文芸に勝敗もなかっただろう。だが、君という敗者の侵入によって世界はプライドを取り戻そうとする。
生まれながらの敗者。それは争いの種に他なりません。有益なものは何ひとつも生まず、口をひらけばそこに争いを生むだけの不毛な存在。
それが居場所を誤った無才。
順位を構成するのは、その他大勢なんですが、何か?
そう、たしかに文学に順位などない。本来なら必要とされる存在だけで成立していた世界に不純物が紛れ込んでいるだけなのだ。
そもそも文学史にカウントされない数が大多数を占める俳壇、歌壇とはなんだろう。実にうす気味悪い集団である。
意識すればストレスである。ストレスそのものなのである。
弟子未満の会員は才能の無い者が才能を持つ者の代弁者としてその立場が成立するのかを今一度冷静に自己を見つめなおす必要がある。
昨今流行りの輸入語にポリティカルコレクトネスと言う単語がある。それに加えて去年だったか大流行りした忖度がある。
なぜ?数にも入らない者に配慮しなければいけないのか、まったくもってストレスである。
斎藤茂吉さんは、あほにはあほと言っていたようだ。時には「死ね。」とも言っていたようだ。
土屋文明さんは、その短歌に「・・・論じ昂るあほどもを前に」と詠んでいた。
その時代、対象が茂吉、文明なら言い返してくるのも茂吉、文明であった。
つまり、自分に対する異論、反論は自分の言葉で返り討ちにしていたし、それがゆるされてもいた。
そうして持論の正当性を主張する事で威厳をたもち、一族郎党に対してはしっかり躾もしていたと思うのよ。
今はどうか?「おまえ誰やねん。」そんな見ず知らずの者から怒りを買い唾を吐かれるのである。
彼ら怒れる人は本来の発言の対象者ではない。対象者になり得る逸材ですらない。
だが、やる気満々なのである。打たれ強いはずもない。追っ払おうとした手元のマウスが頬をかすめただけで訴訟でしょう。そんな彼らがやる気満々なのである。
やがて、そんな中から現代歌人が誕生するのです。
そうして彼らは先生を守り互いを守りながら組織を腐らせていくのである。
Topが誰に気兼ねなく降りかかる火の粉を振り払える世界が待たれる。