短歌は一に才能二には基礎四の五のほざき回し読まれる三流品

2019年2月3日

歌壇 現代歌人様





強者は読み違いをしないものだがしばしば油断する


やっぱ、リミッター解除不要の規制前だよなあ。


トマゼリ製セパハンとBEET製アルミ削り出しバックステップとSUGAYAチャンバーとおまけで生ゴムグリップにナポミラーついでにブリーザーパイプもつけとくかパーンパーンパーン。


こいつライバル車に比べてアイドリング時からの振動が激しいんだよなあ。ポート研磨とビッキャブもいっとくかパラパラパラパラッ。


さて、車種は「・・・」だろとわかったあなたはおっさんです。


チューニングパーツを知るだけで、得意にしていた車種がどこのオートバイメーカーのどの車種かはわかります。


熟練工ならエンジン機構や調子は音色を聞けばわかるし、交換されるチェーンやスプロケットを見るだけで馬力も速度も耐久性もある程度は見当がつきます。


もしかしたら勝ち負けだって瞬時にわかります。


あとは相手に合わせた戦略通りスリップストリームにはいってゴールの瞬間まで弄ぶだけです。


詩や短歌なども同じで、それについて学習しておけば現物を目にした瞬間ある程度は出自も技巧も力量差(才)も把握できます。


だからこそ基礎学習(知識)は必要です。


ところが現代歌壇では散々学習してきているはずの自称専門家が眼前の作について考え込んだり思い悩んだりしています。


わたしには理解できません。


多彩な解釈は不本意ながらでも受け入れるとして、それ以前に出来不出来の判断が下されるはずです。


失敗作は失敗作。そこに見るものはただのポンコツです。


語るに及ばない失敗作にまで解釈があるからと言って頭を悩ませるのは意味不明です。


わたしには理解できません。


思考が混乱した脳味噌を折り紙にしたとでも言いたげな、意味不明の駄作がつづられたグシャグシャの紙屑を拾い上げてテーブルに広げてみたところで、残飯かあるいは虫の死骸あたりが包みからこぼれ落ちて辺り一面に腐臭を漂わせるだけだ。


誰の心にも遥か未来を見渡す水平線を想像させるわけでもなく、世に清浄な空気を放出するわけでもない。


そこを支配するのは嫌悪と悪臭のみである。


ダメなものはダメなのだ。


そのような善悪の見極めさえも瞬時にできない者が指導者として君臨する世界がある。


嘆かわしいことだが反面愉快でもある。


一見してダメなものは何度見返したって、どれだけ時間をかけたって良くはならない。


だが、たまに見る目が変わる時がある。


名解説によって自分の知識不足を補完してくれた瞬間である。


それは抽象的な解説であってはなりません。事物にたいして徹底的に具体的であらねばいけません。


なぜならば、それは全ての読者に例外なく共通する説得力をもたねばならないからです。


社会が共有する価値観の誕生それが創造物である。


大衆と自分との乖離した価値観をむすびつける役割として具体的な解説はとても有効に働くのです。


解説とは欠落した知識を補うものであって、人々を孤立に追いやるような独善的思考を押し付ける行為ではありません。


「読み」とは、その先にあるものだと理解している。

著者と読者の関係が名作を残す


下手な読み人になるぐらいなら素直な読者でいた方が恵みがある。


駄作と傑作の判断は誰にでも下せることですが、つまらないものにまで思い悩むようになればそれさえできなくなるのではないかと危惧しています。


現代歌壇に彦〇呂さんが存在していたら彼はきっとこう言ってくれるだろう↓


「歌人の集団自殺やあ。」


専門家が専門家として成すべき作業が何かと言えば、先ず真っ先にダメなものはダメなものとして見極めて排除していくことである。


専門家には無駄を省く役割が課せられているのです。


最初のとっかかりから頭を悩ます専門家など本来なら存在していないはずなのですが、「読み」と言うものが流行してからの現代歌壇には妄想する人が激増したようです。


考える事は良い事ですが、無駄に悩むのはおバカさんのする事です。


携わる人間をことごとくバカにしたらデメリットしかないではないかとお叱りを受けそうですが、本当にそうでしょうか?


そもそもデメリットとされるその状況こそがメリットになる人がいるとは考えられないだろうか?


全員おバカさん。


こんな楽な世界はどこを探したってなかなか見つけられるものではありません。


これをこそ理想郷と呼ぶのではないだろうかとさえ思います。


現代歌壇ここは誰のための理想郷なのだろうかと考えた時、そこにはいつも一人の無才が立っている。


無才である。


バカに救われる文人など、それ以外には存在しない。


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ディストピア 才能は死んだ


「正直言って何が良いのだかさっぱりわからないけど先生の作品には凡人には理解の及ばない何かが秘められているのだ。」


「わからないからって否定してはいけない。それは自分の無知と不寛容を晒しているに等しい愚行だ。」


そんな圧力とも自主規制ともとれる声が飛び交う中でめでたく先生は現代歌人様となられた。


時すでに遅しである。


もはや何人たりともその名声を貶めることはできないであろうと歌壇内では考えられていた。


「おまえはバカか?それともヒトデナシか?」どこからともなく聞こえてくる声。


やさしい世界に生きるインテリが生み出すものに否定されるものなど一つとして無いのだ。


「彼らを信じられない理由は、おまえがバカだからだ。」


こうして我々の多くは自分の感性を否定して生きるようになった。


世は冷たくそしてやさしい時代である。


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拍手喝采 獲物を呼ぶのは簡単だ


まるで生簀(いけす)の中の魚である。


一首投下されると生簀の中に湧き上がる水しぶきのように大勢が口から唾を吐いて、我先に餌にありつこうとする。


あさましい。


こいつらにはどれだけ食われても糞になるだけなのだ。


そもそも、そんな生簀に放り込まれている時点で名品で無い事に気づかなければいけないのだが、しょせん養殖物である。


喰うものも、喰われるものも市場に上がるまで文句を言わず喰うことだけがゆるされている。


それだけだ。


やがてあれらも糞になる。


多様な解釈にどれだけの影響力があるというのか、自己満足の領域からは決して抜け出せないたわごとだ。


贅沢を言うな、くさしてはいけない、残さず喰えという制約の中で語っているのがよく似たレベルの者ばかりとなれば、そこで語られる解釈は無駄に大きな雑音でしかない。


何匹いたって同じ雑音の出どころでしかない、一匹減れば多少雑音のボリュームが下がったかくらいの反応しかもらえない。


だが、それが唯一最高の誉め言葉なのだ。


だって公害の一つだよね騒音ってさ。


必要なものは本質を見極めた解釈だけです。


それは第三者の口を借りて訴えかけてくるものではない。


著者と読者という一対一の関係の中で読みとられていくものだ。


わからない者はわからないままでかまわないのだよ、もとめられているのは、わかりあえる者だけなのだから。


他人様相手にくどくどと語るなんてもってのほかです。


時間を掛ければかけるほど、それまで名前で呼んでいた人にたいしてさえ「先生、トイレ。」と口にしてその場を離れたくなります。


先生の多い世界は疲れる。


先生は真意に気づく事は無く、やや不機嫌な表情をして話の腰を折るなぐらいの気持ちで「どうぞ」と言うでしょう。


生徒よりできない先生の典型だと思いますけど、現代歌壇には相当数いそうです。


熟考もしないであなた何を考えているのですかとか批判をうけそうですけど、初見での判断が下せる人っていろんな無駄を省くという意味でもとても優秀なのですよ。


たとえその判断が誤りだったとしても、ある程度のレベルまでなら代わりはいくらでもいますからね、いちいち責め立てたりする事の方がおかしいのです。


一度や二度、軽んじられた程度でふてくされるような者は大事に扱ってやっても人の心情を理解できないのでやがて暴走する。


それに、自信作なのに納得できないとして、しっかり練り直してくる者なら伸びしろはともかく成長してくれる可能性は感じられる。


去るべき者は早くに去ればいいのだ。選別ははじまっている。


そんなことはどうでもいいと、人へのやさしさを優先される方は先生の失脚を狙っているのでしょうかね。


まさに不寛容です。


ほぼ間違いはないよ、冷静に考えてみてください。思い悩んで受け入れられましたなんて奴の方が問題があるでしょう。


多くの人はやさしさにかまけて本質を見ていません。


どうしょうかと思われている段階でどっかで使える事もあるかなと、小道具扱いですからね、やがては世界を背負って立つ相手に無条件降伏させられる奴であって勝負にもなりません。


ところが現実は勝てそうもない怪しい奴が大将面をして戦いに挑むわけです。


負け戦必定なわけですからどこかの誰かは笑いが止まりませんわな。


何年、何十年も勉強を重ねてきて組織をダメにするとか、凄まじい悪意が猛威を振るっているのか、もともと素人のお遊戯集団だったのか、そのどちらかとしか考えられない。


まあ衰退した時点で関係者はもれなく世間の笑い者になるでしょう。


これこそ例外は無いわ。

合格発表 その日きみは選ばれた


合格発表の日。


受験生やその家族で賑わう校内には各社マスコミも殺到していた。


ある記者が祝辞の後に下記の質問をした。


「日本は罪を犯しましたね。それについて、どう思われますか?」


彼は答えた「ゆるせません。わたしがこの国を変えてみせます。」


「そうですか。」メディアはうす笑いを浮かべて去った。


世は教育界とマスコミが支配していた。


革命の歌人とやらが散り散りにやぶれさるとき紙吹雪舞う

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