短歌にむいている人は短歌がうまい 短歌評など読むだけ無駄

2019年9月27日

歌壇 現代歌人様




インターネット歌合戦 今こそ語ろう三大ネット歌人



「おっぱい、念力、ドラえもん」これがわたしの知る三大ネット歌人になる。


わたしが「歌人、短歌」で検索を始めた動機は当時流行りの短歌作品を読みたくなったからだった。


其のころ検索上位に踊っていたのが上記記載の「おっぱい、念力、ドラえもん」だったのだ。


そこに割り込むように九条歌人とやらが紹介されたりしていた。


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拝見するや内心(いや読みたいのはこれじゃない)とは思ったが、自作掲載⦅紹介⦆で目立っていたのはこちらのお三方であった。


初見だけで満腹になったわたしは口直しのデザートを欲して、それから数日間は他の方の作品を追うようにネットワークを彷徨いました。


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残念ながらどこにも見つけられませんでした。


その評価を恐れてのことなのか、安売りはしないという意思表明なのかはわからないけど、公(ネット)において「歌人」を自称するほどの自負をしめしながら、歌人の証明書とも言える有って当然の自信作をはじめ、他人が羨むであろう代表作でさえ掲載を惜しむせこい、あるいは臆病な連中にわたしは心底失望してしまいました。


以後、今に至るまで短歌作品を掲載している有名歌人様はいないものと断定して、そのようなブログを探す検索はしていません。


その結果わたしの中では「おっぱい、念力、ドラえもん」が不動の三大ネット歌人として今も君臨しているのです。


がっ······


あれから数年が経ち、おっぱいはしぼんでしまったのか「短歌、歌人」で検索してもヒットしなくなってしまいました。


念力はちからを失ってしまったのでしょうか「短歌、歌人」で検索してもヒットしなくなってしまいました。


ドラえもんは風のうわさで芸人に転身したと知りました。


歌人では食えないと表情が青ざめてから、全身が真っ青に染まるまでどれだけの日数を涙にくれて過ごされたことでしょう。


その恐怖と絶望はまさに歌壇という名のネズミ講にはまった飼い猫(現代歌人様)の如し。


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孤独と哀しみに染まったドラえもんはペストに罹患した病者のように「きみも歌人だ。あなたも歌人。」と、触れる者すべてを感染させてミニドラを増殖させていくことになりました。


やがてネット世界ではペストの如く忌まわしき「ぼく歌人病」に感染したミニドラたちの大行進が始まろうとしていました。


それは大方の予想に反して繁栄を築きつつありました。


もはやその勢力を制圧することなどかなわないほどにパンデミックは広がりを見せていたのです。


気がつけばそこは新世紀のミニドラ天国と変貌をとげ、ドラえもんは今にもその栄華を極めようとしていたのです。


興味がないので、それからさらに数年の時が経過しました。


放置されたままのバグ(「ぼく歌人病」)は修正されてはいないものの、ネット利用者の免疫力強化にとまない感染力は徐々に低下してきていました。


ドラえもん帝国の夢は潰え、現在ミニドラの勢力は根絶へ向けて着々と進行しています。


ところで本体のドラえもんはどうしているでしょう。帝国の夢は潰えたとはいえ「短歌、歌人」で検索すると今も一ページ目に表示されるほどの影響力を維持しています。


素晴らしいですね。さすがの生命力です。


ミニドラについてはたんなる病原菌というあつかいですが、ドラえもんの生命力には感服いたします。


ミニドラを養分にしているだろ。でも、これがまた素晴らしい。なぜなら、そもそもどうでもいい輩が免疫力の弱いミニドラだからだよ。まあ社会から評価を得ようと考えるなら半殺しのまま野放しにしないで干からびるまで吸い上げることです。


あとひとつ素晴らしいのが、時を経たことで病原菌の感染力が衰えてしまったことです。


これまでなら免疫力の弱い未成年などには「触れてはダメ」と警告しなければいけなかったわけですが、これからはベタベタ触っても致命傷を負うリスクは少ないと言えるでしょう。


そうです。現代歌壇にうようよしているのを除けば、若者たちは賢くなった。


短歌で人生を誤る人なんてねえ、この時代では見つけ出すのも難しいです。


そうして、あの頃のみなさんは乳離れもし、ドラえもんはたまに観るだけの自力で生きる大人になった。



かんたん短歌 できない人は何をやってもむずかしい



なにをもってかんたんとするのだろう?


古語や旧仮名を使わないからかんたんなのか?


文語ではなくて口語だからかんたんなのか?


破調も容認されるからかんたんなのか?


かんたんの条件がわからないから突っ込んだ持論は展開できないのだけど、ひとつ言えるのは上記のような条件があっても、それはかんたんの理由にはならないよねってこと。


わたしにとって簡単とは大きな成果が出せる事を意味する。


沢山の人が超絶難解と頭をひねる数式だって、使える人にはお箸や鋏を使うのとかわらず必要不可欠で便利な道具なのですよね。


みんなが求める答えを導き出すためには欠くことのできない便利な道具なわけですが、それを使いこなせる人からすれば答えを知りたい欲求を抱きながらそれを使いこなせないと嘆いている人こそ不思議でならないわけです。


(うまく道具も使えない君がどうして、この場にいるのか?)ですよ。


だって、その数式を使うことが他の何を使うよりかんたんに答えを導き出せるわけですから。


今時の人には理解されにくいと思われている和歌だって同じで、人が言うむずかしい公式を使える人と同じように、万葉調を自在に駆使できる歌人が存在するからこそ現代にも格調高い秀歌、名歌が生み出されるわけです。


そうして生み出された名作と呼ばれるものは目にした瞬間あたまで考えるより先にだいたい誰にも感動を与えます。


作者にとって簡単なものなら読者にとっても簡単です。なぜなら完成までの過程にひとつの疑問もないからです。


難解な道具を使ってできた完成品が誰にも扱えない代物なのかと言えば、まったくの反対で人を選ばず使い勝手の良い物ですよね。


それと同じです。


世間から絶賛されるような作品というのは作者が自在に操れる道具を使って生み出されているだけです。


そこに難しいだの簡単だのという感覚はない。


ようするに持って生まれた美的感覚とか、もっとかみ砕いて言うなら相性の問題なんだろうな。(うまく使えるから、それを好むとも言える。)


反対に万葉調の秀歌、名歌を生み出せる人が、かんたんに口語自由律の秀歌、名歌を生み出せるのかと言われると、できないわけではないのだろうけど、たぶんおそらく生み出せないでしょう。


理由は簡単で、邪道といえば言い過ぎになるのかもしれないけど、定型から逸脱している時点で詩としてはともかく歌人としてのセンスは疑問視しているでしょうからね、同時にある種の偏見は抱えていることでしょう。


完成させようとする気持ちが大切なのに、それとは真逆ではなからそのジャンルを未熟品として見下してしまっているわけですから無理でしょ。(一つ一つのお題はクリアするでしょうけど極めるまでのものはないよ。)


つまり簡単と言われる口語自由律を使いこなせないわけです。


創作における簡単とは誰の目からも評価が高い作品を苦も無く生み出せる状態にある時だと思います。


今いる場所でこれっぽっちの評価も得られていないのであれば、そこはあなたにとってとてもむずかしい表現の場であり最適の場ではないのです。


沢山の人が選択する「かんたん」は創作ではない。



それはお遊戯だ。


共通の言語を使い、共通の道具と材料を使い、共有する空間の中でみんなに心地の良い空気を作っているだけ。


そこに詩はない。


みんなにとって簡単なものではなくて、自分にとって簡単なものを選ばなければいけないし、それがあれば当然それを選ぶのだろうけど、ほとんどの人にはそれすら無いのだ。


そういう人たちが選択するのがお遊戯です。


そのようなお遊戯の場では何がもっとも尊重され、重視されるのかといえば、わかりあうという事です。


互いが互いの理解者であることが最大の成果であり、最高の喜びになるのです。


そのような繰り返しの日々をおくることで、やがてみんなの目的はできない創作から褒めあう解釈へと変貌を遂げていきます。


どの口を見ても空っぽの引き出しのようで、そんな彼らを見ていると明るい未来があるとはとても思えない今日この頃なのでした。

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