現代歌壇に秀歌、名歌がない理由 こころをうてば時代がかわる

2020年7月24日

歌壇 現代歌人様 短歌



サンドバッグでいいんじゃないか 何様、俺様になろう。


なんだかんだと山ほど御託を並べたところで歌人は短歌を詠んでナンボの存在だ。


そんな作品群の中でも名のある選者から秀歌、名歌と評され誰からも親しまれている代表作品ともなれば自然と世の中に浸透していくものだと考えている。


それはSNSという刹那的な、または場当たり的な限られた空間内での無責任な評価に浮遊する曖昧な何かなどではなく、現実社会においては市民権を得てしっかり社会に根付いた存在となっているはずである。


立派な先生方から歌人として世に送り出されるきっかけとなったほどの秀歌、名歌となれば自然と目に触れていてもおかしなことではないだろう。


世はネット時代です。わたしはそんな作品との出会いを期待していた。


二三首でいいから現代歌人様の作品を拝見したい。そう思いながらすでに三年以上の歳月が流れた。


今をときめく20代から40代までの作品はほぼ知らない。具体的には一人一首も知らない方がほとんどだ。


その評価と肩書には首を傾げるほかない。


何度も書いたことだが本当に知らない。だからといって買ってまで拝見したいとも思わない。


理由は簡単で、その世代のほとんどが崇め奉っている存在に興味がなかったからだ。


一人は爆弾。一人はドラえもん。


彼らがどうという話ではない。単に興味がない。その彼らの後追いなら代表歌を二三首も拝見できれば十分だ。


それ以上読み進めていく忍耐力はおそらくない。

誹謗中傷、内部告発お断り。歌人に嫌われる文章が書きたい。


こんなわたしですが悪口陰口の類は嫌いです。わたしの人生でそんなことで人を貶めようとしたのはいつも共産党支持者でした。(兄弟に日教組が強い学校の先生がいるとか零細企業の帰化人社長とかね。)


どちらも人によって態度が豹変していたからなあ。これからはわからない。でも、これまでを生きてきて思うけど処世術としてあれは正しいよ認める。


ただね、汚いよね。


仲直りとか和解とか、そんな言葉もあるけど一度でも嫌がらせを受けた者ならわかるはずです左側の人とは関係そのものが嫌になる。


これはカ●トにも通じる共通点だ。


そんなわけで彼らが大の得意としている讒言(ざんげん)はわたしの好むところではない。


わたしね思うんですよ。現代歌人様がもっとも嫌がる言葉ですけど「短歌を詠め」ではないかって。


故人でもないのにいつまで過去作にとらわれてんだって輩しかいないじゃない。


売り出している出版屋に問題があるのだろうけど、本気で売る気があるのかね?


見方によっては嫌がらせだよな。


もう閉経しちゃってます。って更年期おばちゃんの過去作(もちろん恋愛もの)なんかを推すのなら文学的価値まで語らないといけなくなるんじゃないの?


たんに過去の読者からも評判が良かった恋の歌です。どうです。いかがでしたかなんて程度の紹介で終わるような短歌なら代わりに新鮮な若手を発掘して来なさいよでしょう。


閉経おばちゃんを前面にだして若手の門戸まで閉じてどうすんのよ。


有望な若手がいないなら、せめて新作を出しなさい。


わたしが俵万智さんサラダ記念日をたびたび口にする理由は一つや二つではないよ。


いろんなところに影響を与えたわけです。口語短歌はサラダ記念日以前からあったけど、それを一般化させた功罪とか。


サラダ記念日と言う歌集がただの恋愛ものではない事はこんなバカでも理解しているのです。


過去作を宣伝するとかさ、それ相応の理由がないと自分への評価までも貶めるよね。


その理由がさ、知的財産権も理解していない底辺ブロガーがやりそうな「当時読者受けが良かった恋歌をまとめたよ。」とかわらない紹介のされ方なら読者をなめているよ。


この時代、そういうものは作者が個人ブログを開設して全公開するもんだろ。

短歌をするモチベーション 仮想敵に丁度いいのが現代歌人様


いつの時代も良識ある知識人はいた。惜しむらくは安全にかつ確実に真実を告げる手段がなかったことである。


時代は動いた。


多くの国民に赦しのこない原罪がごとく贖罪意識を植え付け、長期に渡り国益を損なわせてきた歴史的事実が実は捏造歪曲された嘘だと知ることになる。


ネットなどの発達によって雪崩の如き情報が善悪を呑み込む。そしてより熱のこもった情報が人の目に触れることとなった。


戦後インテリジェンスで覆い隠されてきた反日思想までもが白日の下に曝されたことで、日増しに国民との軋轢を肥大化させているメディア界隈ですが、それらとは同胞のように仲がよろしいのが現代歌人様や現代俳人様だったりする。


だが、けっして間違いを正すことはない。


短歌実作者としてはそれほど評価されていない人が朝💩日とかWai🦘WaiとかN🐶Kとか大手メディアで大御所として活躍されている姿を拝見するたび、なるほどねえと見ていたもんさ。あれだな怖い人(反社っての。)とニコやかに撮られたツーショット写真を見せられた気持ちかな。


友達は選ばないといけないなとあらためて考えさせられる。


そんな国民の敵とも言えるメディアの同胞である現代歌人様ですが、その多くは今に生きる上級国民であらせられる。


普段の生活ではなかなかお近づきになれない人たちなのに、何も誇れるものなどなかったという凡人でさえひとたび短歌をやると、途端にその距離が縮むのだから短歌への愛着とともに現代歌人様への親しみもわいてくるのは当然だろう。


こうして悪(影響力の無力化)がなされていく。


おもしろいではありませんか、より評価の高い短歌を詠むだけで社会悪を退治浄化できる可能性があるなんて考えると短歌をするモチベとしては十分にありでしょう。

歌壇ヒエラルキー 読者がもとめる歌人の条件


現代歌壇のヒエラルキー図を想像してみると、もう無理じゃんと言いたくなる。


わたしは部外者だからそれだけで済むが、当事者のあなたたちはよく絶望しないなと不思議でならない。


実質瓦解しているとも言えるけど、もう崩壊してもかまわない気でいるのなら現状維持でいいのかもね。


基本中の基本として歌人は短歌さえうまければいいと思っているわたしですが、世の中はそんなに単純ではありません。


考えてみればごもっともな思考ともとれるのです。


短歌を詠む側にいる人なら歌人は短歌さえうまければいいのかもしれませんが、そうではない読む側の読者となるとうまさ以前に、それが読むに値するものであるか保障をもとめたくなるのです。


ほとんどの人は有限である時間を有効に使いたいと考えるものですから仕方がありませんね。


作品の価値より作者の価値を優先する人たちです。


では人の価値は何ではかればいいのでしょうか?それは社会的価値と直結したものと多くの人は考えるようです。


俗に言われる地位や名声に名誉それに財産などが評価基準となります。


それらを手にした人だけが歌人であり、彼らが成功の過程で得た学びや発見こそが唯一間違いのないものであると信じて疑わず、これを伝える権利を持つ人だとして受け入れられていくのです。


こうして一度読者からの信頼を得てしまえばその後の著作はほぼ無条件にて受け入れられていくことになります。


コアな読者と言うには疑問を感じますがファンであることは疑いようがありません。


短歌愛読者とはなんとも自尊心の強い方々である。


こうした読者の票をより多く獲得していく人がはたして歌人と呼ばれてよいものなのでしょうか?


わたし個人としては甚だ疑問に感じますが所詮は部外者の感想です。


歌壇ヒエラルキーの上位を占めていくのは、より多くの票を手にした者となります。


たとえばそこに日本人初のノーベル賞受賞者である湯川秀樹博士が名を連ねていたとします。


歌壇としては名誉であり、ありがたいこと(それもどうかと思う。)かもしれませんが違うよね。


でも現代歌壇ヒエラルキーはそのような構造で成り立っている。


わかりやすく言うと部外者によって支配されているんだよな!


見る人によってはですが、素敵な短歌が生まれる場であるはずが、その実態は伝統文化破壊の震源地になり果てているのではないかと怒りと恐怖におののくわけです。


ちなみに湯川秀樹博士についてですが、「天才の世界」という本の中で啄木通であることを明かしています。


嫌味がなくて啄木の短歌が好きだという思いがよく伝わる素敵な言葉を残していらっしゃいます。


学者の道をまっとうされた尊敬されて然るべき方です。

昔、こんな短歌なら俺にもできる。今、こんな歌人なら俺でもなれる。


さて次代を担う現代歌人様のスペックはいかがなものでしょうか?


とりあえず名門大学を卒業されて現代歌壇の支配層に親近感を抱く人であれば、「よっしゃ歌人で売り出して俺の人生飛躍しちゃうよ。」となめてかかっても仕方のないことだと思う。


その姿勢や良しである。それが現代歌人様を見て当たり前の反応だと思います。


しかし問題はここからです。


彼らには歌人である以外に人様を平伏させられるだけの保障がありません。


これでは歌壇の支配層が今に生きる上級国民であるという前例を覆すにはあまりにも中途半端な存在と言えます。


それでも現代歌壇にはもう彼らしか残されていないのです。先日歌壇ヒエラルキーの頂点に立つ岡井隆さんが亡くなりました。


縁もゆかりもない現代歌壇の偉い人でしたが、そんなわたしでさえなんだか淋しさを感じます。


山の頂が崩れました。


あとは年を追うごとに山は低くなり、平坦な土地にならされていくのでしょう。


牧歌的で長閑な景色が目に浮かぶようです。彼ら(歌畜)自身がどんなに抗ってみても、未来に生きる少年たちに鞭打たれつつ悲嘆にくれる新世界の訪れを拒むことはかなわないでしょう。


そうであるなら短歌を詠まない理由はありません。


ユキちゃんを食べに行こうと思います岡井隆はオラのペーター

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