事の発端は建国以来と言われるほどの豪雨が国中を襲った日から始まっている。
その日の晩、ずぶ濡れのおんなが二人の赤ん坊を抱きかかえて窓の外に立っていた。
その姿を目にした瞬間、わたしの心臓は冷たく凍った手で握り潰されそうな感覚に襲われた。
そのとき動揺するわたしの姿を直視していたであろう彼女はと言うと一切の人間的感情を失くしてしまったのか、人形のように表情一つ変えることもなくこちらを向いて立っていた。
ただ絹のように白く透き通った彼女の顔だけが闇夜の中でうすぼんやりと浮かんでいたのである。
やがて彼女は水面に浮かぶ落ち葉のようにすうっと扉の方へと近づいて行った。
(まさか?)わたしは飲み干したカップを手にしたまま慌てて扉の方へと駆け寄った。
扉を開けた瞬間、激しい突風が吹きこみ礫のような雨粒がわたしの頬をうった。
二人の赤ん坊がわたしの足下から笑顔を見せている。
振り返るとすでに彼女は森の入り口付近に立っていて黒いマントをひるがえしたかと思うと呼び止める間もなく闇夜の中に溶けていった。
扉の前には二人の赤ん坊が置き去りにされている。
腕を組んで立ちすくむわたしの手にはあふれでるほどの雨水でいっぱいになったカップだけがあった。
その時だ、轟音響かせ闇を切り裂く閃光がわたしのなかの何かをも同時に断ち切った。
わたしは雨水いっぱいのカップを扉のそばに置くと二人の赤ん坊を抱きかかえたまま部屋に戻った。
不思議なことにふたりの赤ん坊はまったく濡れておらず冷めきっていたわたしの体を胸の芯から温めた。
その日以来二度と彼女が二人の赤ん坊とわたしのまえに姿を現すことはなかった。
雨は降りやまず時代は乱世と呼ばれるようになっていた。
男たちは戦いに明け暮れ、女たちが涙にくれる暗黒時代に終わりは来ないように思われていた。
だが、ついに天が割れる日はおとずれた。
二人がわたしのもとに来たあの日から扉のわきに置いたままとなっているカップの中にはあふれるほどの朝陽が差し込み小さな花が寄り添いながら微風にゆれている。
二人の男の物語はいつかまた。
物語詩と連作短歌について
旧約聖書の雨の七日間などそれ以降から同じような流れは脈々と受け継がれてきただろうけど時代の成り立ちと季節の移り変わりなどを連動させながら物語を進めていく手法は連作を作るときなど極めて有効だ。
ギルガメシュ叙事詩とまではいわないがバイロンのチャイルドハロルドの巡礼などもその土地の風土や歴史建造物などを作品に取り込みながら陰鬱な心情を吐露していく。
物語詩には連作短歌のヒントが網羅されているのだ。それと同時に連作短歌最大の障壁でもある。(とアホは思う。)
現代短歌って始めから意識して作られた連作集でしょ。そのくせ作品全体としての物語性(テーマ)はどっかにほっぽって、なんちゃって代表歌を掘り出してはぐだぐだと論じ合っている印象しかない。
八卦見じゃないんだからさ、連作の価値を何処に見てんだかね?
その場にいる連中はそんな自分に酔いしれているのだろうなとは安易に想像できるが論じられている作者はどんな気分なんだろ?
気持ちいいのかな?
連作短歌なんかを論じるときはお気に入りの一首ではなくて全体のテーマについて語ってくれないと、それは途中経過でしかないのだからほぼ間違いなく論点はズレるよね。
一首を語るなら技術論を駆使してそれぞれを徹底的に分解しながら詳細に語ってほしい。
どちらかと言うとそうする方が簡単だと思うのだ。
連作の中の一首でテーマが完結するわけないじゃん。そんなの熱く語ったところでたいした意味はないんだよ!
だからこそ連作短歌の中で無駄にのさばる駄作はゆるせたものではないのだ。
連作短歌ほど技巧が大切
最近てんで聞かなくなった写実主義なら見たまま、感動したままを描写すればいいのかもしれないけど、それでも抒情をにじませる工夫は必要でしょ。
電報を打っているわけではないんだからさ、一つ一つの描写に詩的要素が加味されていないなら韻文詩として機能しない。
ほとんどの作品が韻文詩としての役割を果たしていないなんちゃって連作集ならはじめからコラムかエッセイにでもして書いた方が伝えたいことが簡潔に伝わります。
なんのために定型があると思ってんだよな。名シーンなればこその定型だろ。
そこには序詞であったり、縁語、掛詞など多様な技法が用意されている。
連作短歌の一場面として切り取られるほどの感動的なシーンなら、そりゃねそこは短歌としての完成度にこだわりをもたないとダメです。
そのこだわりというもののなかでも大きな位置を占めるのが物語詩には無い短歌的表現技法ということになっていくのではありませんかね。
その結果として連作短歌が生み出されていくのでしょ。
物語詩との決別という意味で韻文詩という主張は必要不可欠なのだ。
選者とのめぐりあわせという運不運はあるが、連作短歌集でありながら特定の数首だけしか論じられていないような出し物は失敗作だとわたしは判断させていただいている。
よって購入することはない。
構成力と編集センス
面倒くさがりで怠け者なわたしですが創作に関してはすべてを自分一人で完結させたい人です。
とうぜん構成も編集も自分の好むままにする。
構成と編集によって作品全体の空気感が左右されますからね絶対に他人には触れられたくない。
構成と編集に時間を費やす行為は読者を招き入れるまえの大切なマナーだと心得ているからだ。
そこで思うのは、そもそも構成力に難がある人がどうして連作短歌なんぞに手を出すのだろうかだった。
適当に思考を巡らせた結果そこには影響力がある歌集が禍(わざ)しているのだろうと結論が出た。
ずばり石川啄木さんと俵万智さんの仕業でしょってこと。
商業出版されているほとんどの歌集が強風に引きちぎられていく紙屑が如く読み飛ばされていく中で「一握の砂・悲しき玩具」と「サラダ記念日」は作者のキャラが際立っていて歌集としてどちらも読みごたえがあったよね。
おかげで大概の自称歌人は悲惨なことになるわけだ。
ときどき耳にするのが「水の歌人」とか「炎の歌人」とか他にも「音」や「色」「匂い」なんかを詠ませたらこの歌人の右に出る者はないって感じで紹介されていたりするけど、なんというのかセンスねえなあと思うわけですよ。
だが、それら小道具が連作短歌の中で多用されるとキャラづくりのため大いに寄与することになる。
褒め言葉のつもりでそんなことを言ってると、ちょっと足りない人ほどその気になってしまい、よっしゃ、わたしは水の歌人で売り込もうとつばを飲み込んだ瞬間に頭の皿が傾いて作品重視からキャラ重視になるのだ。
歌人としてのプロデュースが先行しちゃっつてテーマは何処へ行ったんだよ!とまあ辛辣なツッコミがはいるころには自己を見失うほど暴走していて、水ならわたしにおまかせっよってな感じで迷走の歌人続出よ。
笑うよね!
でも選者が評するのは「水」の短歌だ。なぜなら彼こそ彼女こそ「水の歌人」の生みの親だから。
そこでまあ連作短歌としての物語性は喪失ですわ。
(そんな奴いねえよってか?)ふーん?でもさ、けっこうな数の現代歌人様がセルフプロデュースにかまけちゃう不幸が頻発していたような気がするなあ?
売れっ子はみんな何らかのアッピールはしているもんさ。やらいでか‼
ってな。
女子高生とかホームレスとか派遣とか小学校中退とか他には定番の夭折とか未だにがんばっているじゃん。
編集に見合う歌作そっちのけでキャラづくりが優先されて作品を売る手段になっつちゃっつている。
なにかってえと安易にプロフィールで売り込もうとするよな。まあ出来の悪い編集者がいたもんだよ。のせられる作者もだけど、それを安易にゆるしてしまう出版屋の罪は重いよね。
でもさ、本来そういう作者のキャラってのは出版屋から押し付けられるものではなくて作品が読まれてから読者を通じてできあがっていくものでしょう。
順番が正反対なんだよなあ。
啄木なんてキャラが濃いしな。キャラで売ってるとか勘違いしてしまうのだろうか?
いやでも啄木の短歌は技巧がうまく働いていてキャラ抜きに人を惹きつけるよね。俵万智さんの短歌だって虚実はおいといて読ませるよね。
作品先行型で後から著者に興味が湧く良書だよ。
ところがキャラに興味がもたれるほどの優れた短歌もないのに開く前から御大層になんちゃらの歌人なんだもん。
これぞ「ザ・ごり押し」って感じで笑えるっちゃ笑えるんだけど、短歌検索ででてくる出版屋のスニペット表示には紹介文ばかりで一押し短歌なんて一首ですら見たことがない。
ながったらしい紹介文より自慢の短歌だろ。どうせ推すなら作品を推せよな!
一部抜粋とかではなく一行目からスパッと自信作数首を見てもらえるところが短詩系のいいところでもあるのにな。
新作映画のCMに出演俳優の受賞歴や経歴だけを流して終わりとかあるか?そんなのアホだろ。アホが言って申し訳ないけど。
でも本当にこれ(キャラ売り)の恐ろしいところはちょっと足りない作者だけでなく、ちょっと足りない読者までもが悪影響をうけて真似るようになることだよ。
「東海の小島の磯の白砂に」から「命なき砂のかなしさよ」と一章の中に砂を詠み込んだ作品が複数あるからってねえ、たのしい砂遊びと、さびしい砂遊びはこどもだって分けて考えるのだから石川啄木さんを「砂の歌人」とか言ったら最後、そこ(歌壇界隈)に居続ける限りうんこ呼ばわりされそうで怖い。
砂であろうが、水であろうが、小道具でしかない。そんなものでは読者の共感は得られない。
どこの誰がくたびれたおっさん相手に砂遊びなんかしたがるねん‼
そんなことよりも(ああ、この作者はさびしい人なんだ。)とキャラ立ちした自分を読者に認識してもらうことがなにより大切でしょう。
そのためには一首としての抒情性を高めながら全体の空気感を統一して現実的な世界観を読者と共有していくことの方がよほど重要です。
そうすることによって読者の心をつかんで離さない読みやすさが生まれるのですから。
ライトバース 内容や文学性よりも形式の妙で人を楽しませる娯楽詩だってさ。
わたしはこれを「サラダ記念日」ブームに便乗して売りに出されたB級グルメと勝手に命名していたのですが、現代歌壇では上から下までけっこうな数がそのB級グルメを食らってお育ちになられているようです。
よく腹を壊さないな。
お腹が弱いわたしでは満足に消化さえできない。
実績のある大御所ならまだしもぽっと出の駆け出しがよりにもよって短詩系最大の武器であるはずの構造を崩すなんていう発想そのものが反抗期のガキンチョを連想させるんだよなあ。
おまえら保護から外れて生きていけるのか?ってな。
とりあえず裏か表かしかなさそうな単細胞がインパクト重視で飛びつきそうな売り込み方ではあるよね。
型破りな俺氏すげえ‼みたいな。
ライトバースか、今でいう中二病を拗らせた子供部屋おじさんを想像してしまう。
事実その作風は重厚というには程遠い軽薄さがうかがえる。
そんな空虚なライトバースと物語性が重視されるであろう連作短歌との関係はすこぶる相性が悪いはずなのだが、なぜだかライトバースと呼ばれる選者が跋扈して、数ある短歌賞はどれもが連作応募なのである。
でまあ、皆様ご存じのようにプロフィールごりごり現代歌人様が世に解き放たれているわけであります。
私感になりますが、おかげで現代歌壇は衰退の一途を辿っているわけでして、これはまあ歌壇を私物化したい悪辣な連中とはまた違ったある一定の層から見ても想定内のできごとであり期待通りの展開になっていて笑いが止まらない。
※法人化しているから私物化していないなんて詭弁に翻弄されてはいけないよ。誰がそこにいるかが問題なんだ。
ゲームのことを知らないわたしがゲームキャラでたとえるのもどうかと思いますが、張りぼてのラスボスが安心できる状況は下剋上がない俺以外全員スライムな世界でしょう。
それってさラスボスの正体を知る者からすると八百長試合にちかい国盗り合戦が用意されているってことなの。
でね、至極当たり前の話だけど村人から支持される英雄が次代の王様になるわけよ。
というか選択権があるわけです。
B級グルメなんてものはほとんどがテーブルマナーを必要としない立ち食いメニューなわけでして、若者たちが大きくなる過程で友達や彼氏彼女とわいわいしながら食べ歩くジャンクフードですよ。
「おっちゃん、大盛りのカップ追加でお願い。」