歌壇に巣食う無能な働き者
擁護していそうで実は足を引っ張っている。世の中にはそのような人が沢山いる。
たとえば短歌人口をそのまま現代歌壇に関連付けて語っている大ぼら吹きなどがそうだ。
「おまえ、つまらないことを言うな」と歌壇の中堅どころを苛立たせていることだろう。
短歌に興味を持つ人がみな歌壇に関係する人になるのなら、現代歌人様の歌集販売数はもう少し伸びていてもおかしくない。
現代歌壇は彼らから孤立している。
こんなことは歌壇内に生きる人なら実感していて当然だ。
ルーティン。これがまさにそのルーティンだと言わんばかりに結社内で駄作を持ち合い、騙し合い、賞レースに参加するのは顔見知りの結社会員であるのがほとんどで、互いの主宰がそれらを分け合い、商業出版がされたなら作者から有力者に謹呈本を献上されて、さらにはそれを歌壇内で褒め合い、機会があれば各種メディアで売り込みあい、もっとも数が多い最下層の会員の中でも知識の浅い学生などが尾を振りながら最大購買者として出版屋に還元することとなる。
すべては歌壇内で完結しているのである。
その読者に一般の短歌愛好家はどれくらい含まれているのだろうか?その購読者の割合は謹呈本を除いた数となるので著者自身が誰より孤立感を深めていることと察する。
そもそもの販売部数が少ないのだから作者にゆかりのある歌壇関係者と一般の短歌愛好家との割合は拮抗してくるはずだが、それでもその数を圧倒してくるのは母数が多い一般の短歌愛好家より作者にゆかりのある歌壇関係者となっていることだろう。
ソースはない。がしかし世間に言われている短歌人口をそのまま歌壇の経済圏に加えるのなら、販売部数が所属する結社会員数にも遠く及ばない歌集ばかりで溢れかえる惨状はありえない。
その数字は眉唾物だが圧倒的多数を誇る短歌愛好家が本気なら歌集から結社臭は消えている。
結社臭漂う歌人ばかりで組織されている歌壇の立ち位置など窺い知れるというものです。
世間からはまるで相手にされていない。それが現代歌壇の現実だ。※バブル世代なら主宰クラスのサイン入り初版本には魅力を感じるかもね。
歌壇は短歌愛好家の目指す頂であり、歌人憧れの聖地なんて愚にもつかない妄想を抱いている方がこのような妄言を吐かれているのだろうけど、自称歌人同士が読み合うだけの売れない歌集の量産をつづけるかぎり山は山でもゴミ山と揶揄されても致し方ないのではないだろうか。
歌集を売って食えるからベストセラー歌人
ベストセラー歌人として複数人を語る時そこに俵万智さんを入れてしまう人がいる。
桁が違うだろ。
他が雑魚になってしまうことを理解しているのだろうか?なにを基準にベストセラー歌人と言っているのかわからない。
メジャーのイチローさんと独立リーグのスター選手で終わる人とを並べて語るようなもんかな?
褒めるにしても貶すにしてもランクが違う人と同等に語っている時点で、世間の目に触れさせる価値のない駄文だと気づけないのだとしたら困った人だ。
たぶん世論誘導がしたい確信犯だと思うけど、ここまで稚拙な騙りに引っかかる短歌関係者がいるのだろうか、だとしたら歌壇の程度がうかがい知れる。
だって騙す方も騙される方も同じ歌壇の住人なんだろ。
数字と作品の質はリンクしている
今どきの人はみなさん数字を重要視されるので、数字で歌人を見極めていけば自分はどこを目指して何をするべきかは明確になる。
短歌で生活したいと考えるなら目指すところは俵万智さんの一択しかないじゃん。
どこを見渡しても歌集で食えるベストセラー歌人なんて彼女以外に存在しないのだからね。
短歌で生活したいなら短歌を詠むしかないのだよ。
ある方によると他にもベストセラー歌人は存在しているようだけど、彼の言うベストセラー歌人はいったい何部売っていて、歌人としてどのような活動をされているのだろうか?
各自の販売部数をしっかり提示して紹介することが重要です。
一万部と百万部とでは売れた人と売れていない人ほどの差があるのに同列に語っては失礼にもほどがあるだろう。
売れない人ほど歌人として生きているのが現代歌壇のおもしろいところだけどな。
なお数字をぼかしている人は信用するな。
ちいさな池とおおきな池
魚釣りで釣果を上げる鉄則は最高の道具でもなく、最強の仕掛けでもなく、上等の餌でもなく、場所選びにある。
魚がいないポイントにいくら餌を放り込んでも釣れるはずがない。
採算度外視で歌壇という小さな経済圏にいて満足できるのは短歌を収入源としてではなく、とある世界へ潜り込むためのトラフィックと考えている方たちや、伝統文化の後継者として持て囃されたい人などその思惑は様々なのでしょうけど、作歌自慢からすれば居心地のいい場所ではない。
いわゆる主(ぬし)が潜んでいるかに思われていたが、それもいよいよ怪しくなってきた。
目立っているのは自己主張が強い雑魚ばかりである。
なぜ短歌総合誌を見るかって、釣り場で大物の姿を見つけた時のように最高の短歌を見たいからなんだよ。
だけど何度見ても求めていたそれはない。
短歌総合誌に秘密の穴場を重ね見ていた人がいなくなるのも時間の問題だろう。
そこに見るのは雑魚なんだから。
現代歌人様が思うほどに歌壇に興味を示す者などもういない。
腕自慢であるのなら世間という大海にむかって短歌を放つ時代が到来したのだろう。
短歌カルテルの闇 市場は育てるものです
自分の経済圏に集客するためには商品、それも魅力的な商品を市場に提供しなければ商売は成立しません。
ところが現代歌人様ときたら、せっせっと短歌らしきをひねってはその著作のほとんどを支持者集めの謹呈本として献上し、歌壇に取り入ろうと指導層の顔色を窺っているご様子。
一度は自分を認めた人たちであり、不特定の消費者を相手にするよりは派閥の勢いに任せて影響力がある少人数を篭絡する方が手っ取り早いと考えているのかもしれません。
そうでなくても大物からのお墨付きが欲しい気持ちも理解できなくはないわけですが、やっぱり短歌を投げ入れる場所が間違っている。
作品は市場に投入してはじめて価値が生まれるのです。
ではなぜ、そのような愚行が尽きないのか?
それは現代歌人様がなにを生業としているかを知れば見えてきます。
第一に思い浮かぶのが選者ですね。
企業の出世争いそのまんまの構図が垣間見えて辟易としてきますが、みなさん次期選者の椅子を狙って奮闘されているようです。
これさえ手に入れてしまえば、講演会への依頼や講師としての推薦などが期待できます。しかしそれは一部の売れっ子に限られた事であり、ほとんどの歌人にとっては時間と労力の浪費は半端なく、たとえ選者の椅子を手に入れたとしても見返りは微々たるものとなり、非常にコスパが悪い副業となります。
なにより限られた少人数しか報われません。
しかし学者として生きていく道を断たれたうえに、作品でも食えない彼らが歌人として食っていくにはこの道しか選択肢はないのです。
作品で食えない連中が支配した。または支配をゆるしてしまった弊害がネット社会となった今になって噴出しているのでしょう。
残念ながら現代歌壇が存在するかぎりこの流れをくい止めることはできません。
現代歌壇は現代の置いてけ堀 腹がふくれることはない
ネットにおける短歌市場の開拓は、やがて結社歌人と言う彼らの存在そのものを否定することになり、結果として彼らの命運が尽きる事までを意味するわけですが、歌壇内で価値がある風を装っているのが大半ですからどうなろうと気に病むほどのものでもない。
匿名掲示板だ。SNSだと短歌の賑やかしがあるのは知っていますが、それもほとんどが結社歌人たちの影響下におかれていて、それらプラットフォームの本領は生かされていないのが現状です。
すなわち未だネットにおける短歌市場は未成熟のままということです。
自分は作品で世の中に問うてみたいと考えるなら、今後を生きる歌人自身の力によって誰かを祭り上げるだけの現代歌壇など葬り去らなければいけない。
咬み砕いて言うなら「無視するこった。」
さあ、短歌を詠もう。一人で歌集一冊分も詠む必要などありません。みんなの自信作が一首あれば短歌市場は十分なマーケットになる。
釣り人はここと釣り場を決めたなら撒き餌をしながら獲物が近づくのを待ちますが、その餌一つでさえ狙う魚の好みに合わせて作られています。
十分な撒き餌がされたころには最高の獲物が群れを成す環境が形成されていることでしょう。
そうしてできた食物連鎖のなかで雑魚も食われていくことになります。