短歌はコネを利用して生き残れる人が強い。ただし結社歌人と学生短歌出身者は除く。

2021年9月8日

歌壇 現代歌人様





良い受賞と悪い受賞の違いは作品が先かコネが先かによる



一枚見せては一段昇る。人の世はコネを拾いながら階段を昇っていくようなものだと知る。


むかしむかし、ちいさなちいさな短歌賞にひっかかりました。


その時すでに短歌への興味を失っていたわたしは授賞式には出向きませんでした。


この授賞通知が届いてから授賞式までの期間になんどか電話をくれたのが主催側の責任者と思わしき方と、賞の選者をされていた方で当時の歌壇では勧誘おばちゃんとして一部で知られた方のようでした。


ようでしたと言うのも、「Aさんと言う人から電話があった」と親から聞くだけでわたしが電話をとることは一度もなかったからです。


自分を主賓と表現するのはおこがましいのですが、授賞式に受賞者の一人が穴をあけるのですから、そりゃ責任者は連絡をとろうとしますよね。


まあでも世間と言うより短歌も歌人も、ようは歌壇をなめていました。


そんな機会が欲しけりゃいつでもつくれるし、話題性の欠片もない短歌事情なんて俺一人いなくてもどうってことないだろと罪悪感なんてこれっぽっちもありません。


わたしの中では投稿した時点でその話題は完結していたのです。


ここまでを読まれた方は最低やなこいつと嫌気がさした事と思いますが、わたしにも正当な言い分があります。


応募はがきには授賞式への出欠欄がありましたので、応募時点でわたしはいけませんよと「欠席」欄にチェックを入れてから投稿いたしました。


だから、よけいに(うぜえ)と感じた。

受賞がナンダ 終わりの始まり


受賞式出席への催促電話は数度に及びましたが、そのつど親からは電話に応じない姿勢を咎められ非常識だと叱責されていました。


おかげで電話があったと聞くたび、投稿時に「欠席」を選択しているのだからこちらの意思を尊重して式を運営すればいいだけだろが、と憤慨していましたが同時に下記に記したようなことも思い浮かんでいました。


某新聞歌壇や大手出版社の短歌総合誌が運営している新人賞の選者も請け負っていたりと当時人気の勧誘おばちゃんでしたので、誘いに乗っておとなしく子飼いにでもなれば大物選者の貴重な一票は拾えそうだし、フリーパスで登竜門をくぐれそうだな、なんてことをね。


扱いのほどは過去に勧誘された他の方も同じだったのかもしれませんし、あくまでもわたしの感覚ですが、それまでに経験したことがない熱心なお誘い(電話回数が判断基準)でしたので思い上がりは最高潮に達していたのでしょう。


どこの世界も後継者不足に喘いでいる現状がありますので指導者としては有望な若手を取り込み、文化を継承していく使命感にかられていたのでしょうかね。


とは言え、わたしはわたしですから上述したようにご縁は断ち切らせていただきました。


この時わたしはいくつかの学習をします。


一つが、少々自信があるからと冷やかし半分で下手に手を出したりすると引くに引けない厄介ごとに巻き込まれる可能性があるという戒めでした。


この件があったおかげで、当時のわたしは迷いもなく未練も残さずに現代短歌と決別することができました。

選者も人間なら応募者も人


なんらかの応募や公募に参加された経験がおありの方なら賛同いただけるかと思いますが、一度でも参加すると後数年間は時期が来るたび参加申込書を送付してくれたりする運営もありました。


短歌に限った話ではありませんが、短歌コンテストの選者をされている方と言うのは客寄せパンダ的な要素も兼ねていて選者への依頼が人気歌人に偏る傾向があります。


おかげでちいさな賞からおおきな賞まで複数のコンテストを人気歌人が兼業で受け持つ機会が増える事となり、どのコンテストをのぞいてもかならず一人は有名人気歌人(大手新聞歌壇選者・大型新人賞選者)が選者をされているような状況でした。


当時人気の勧誘おばちゃんもそのような例にもれず多数の「選」を請け負っておられたと記憶しています。


このような事実から当時のわたしはコンテスト運営から封筒が届くたびシード権を得たような気分に浸っていました。

ちいさなコネからコツコツと


余裕をぶちかましていた当時の自分には贔屓の「ひ」の字も見えていませんでした。それでも自分の存在を意識する有名歌人が選をしていると考えれば参加への意義はありました。


少なからずも自分を評価してくれている人である。誘いに乗らない方がバカです。


作品次第ではあるが一度縁を持てばちいさなコネからコツコツと賞を積み上げていくシステムが構築されているのだ。


それならば、自分の力の限界まで乗っかって行くのが正しい選択です。

当たり前っちゃ当たり前の話 作品に勝るコネはない


消去法と言えば聞こえは悪いが、選歌の前にその賞のアベレージを引く選者がいると仮定して、自分が目利きした人材が呼びかけに応えて投稿してくれるなら、どこの馬の骨かもわからない投稿者の作品をランダムに見ていくより、まずはそれを基準に投稿作品の優劣を判断していくかもしれない。


選者だってつまらない作品に時間は奪われたくないだろうから、出発点をほぼ同じくする受賞経験者と応募者を見比べていくことは理にかなった選歌方法ではないのかな。


目をかけた人がどこまで勝ち抜けるかってのは楽しみでもあるし、期待通りもしくは期待以上の完成度を見せてきたら嬉しいし、楽だよね。


唯一気になるのが、受賞経験者と応募者の作品との優劣が拮抗していた場合だけど、安定感を保持した受賞経験者優位だと考えるね。


読者が見るべきは選者と投稿者の関係ではなく受賞作の質です。


万が一それが受賞作としてふさわしくなければコネと貶されても仕方がないし、コネは悪事として糾弾されなければいけない。


でもね、与えられた機会を活かして次々と勝ち抜いていく実力があるのであれば、そのような作者の出現は一読者としても喜びであるはずです。


今はもう思想運動にかまけるような連中ばかりが支配層にいて絶滅してしまったようですが、実力のままに結果をだしていく存在に心から喜びを感じられる選者がいれば、未来に希望もあるのだけどね。

コネ受賞がまかり通っている業界なんて表向きはともかく、その実態はどうしようもないほど衰退している


応募者のほとんどがいずれかの短歌結社所属会員である短歌のコンクールなんて、よほど飛びぬけた存在でもいなければ団栗の背比べになるのですから、低レベルな競い合いであればあるほど自分(選者)が気にかけている(歌歴などの実績を知る)無難な存在に目がいくのは当たり前です。


※誰とは言わんが、その最たる例が現代歌人様人生最大の失敗作であるおこちゃまなんだろうな。


これこそが、批判を浴びているコネのコネたる所以だと思われますが、誰だってつまらない輩相手に築き上げた名声を傷つけられたくはないだろうし、足を引っ張られたくもないでしょ。


飼い殺しにできる奴を選んどくわな。


そんなつまらん賞の選者をされているという意味では貶されても仕方ないと思うけど、コネがどうので責められるのは筋違いでしょう。だって競争相手の応募者がだらしないのが主原因なんだもん。


それが気に入らないと言う団栗がいるのなら、相手(選者)の懐に転がり込むしかありません。


つまり他とは比べようもないほど魅力的な自作で勝ち抜けということです。


コネ受賞者の生みの親が誰かと言えばほかでもない、実は彼ら落選者なのだという不都合な真実を知る必要がアル。


重要:ここでの話でもっとも大切なことは思想なんぞで結果が左右されない実力者が選者をつとめているという前提で書いていることです。


あっ、それともうひとつ大事な事を書き忘れていたんだけど、わたしの体験談はだいたい規定改定前となるような昔話になるという前提でみていただきたい。(もとから規定は変わっていないというところもあるだろうけど)


で、最近は応募作品は無記名で選者に配布してという文言をよく目にすると思うんだけど、それでもさ、応募総数と結社会員の参加割合とか各結社の短歌賞に対する考え方や方針にくわえて、個々人の作風とかね、そういうのを理解している立場にある人で、なおかつ選を受け持つほどの結社幹部なり主宰なら作品を目にした瞬間ハッと気づく場合があるからね。


とくに前年の受賞作品なんかを予習している選者ならなおさらだよ。


むしろ賞を与えてもいいかなと思うようなお仲間なら、一目でおおよその検討がつくと思うよ。つかないならそれはそれで問題でしょ。(ムフっ)


結社会員さんて、わたしのようにそうそう作風を変えたりしないだろうし、一年目次席、二年目大賞受賞とか、そういう人もいるのでその作品を見比べれば、わかっていただけるかもね。


なんにしても応募総数1000にも満たない賞なら、無記名もへったくれもないだろ。だって歴代受賞者のほとんどが、どこかしらの短歌結社会員なんだからさ。


それに下手したら応募者の半分くらい(もっとだろ笑)が毎年落選組なんじゃないの?新鮮な人材って実際どれくらいなんだろな?そういうのを新人賞って言えるのか?(どちらかといえば角川短歌殊勲賞とか短歌研究技能賞とか短歌現代敢闘賞の方がしっくりくる。これを新人の登竜門とうたっているんだから嘆かわしい。)


注・断っておきますが、受賞者にケチをつけているわけではないからね。俳句、短歌はある程度の素養が身に着くまで数年間じっくり磨きをかけて育てる必要があるとか言うけど、新人賞はその磨く価値があるのかを発見する場でしょ。できない人が執着してまでがんばる場ではないよね。


募集要項にアンケートをつけて応募回数別にそのへんのデータを回収してほしいわ。(ある?)


これさ、ほとんどの受賞者が複数回挑戦をした結果として栄誉を得ていると考えると、競争相手にほぼ代わり映えがない場で、出来のいい人から先に世に出るわけで、後になるほど受賞者の経年劣化も危惧されるんじゃないの?(何回敗者復活戦やらかしてんだよ!)


♪たがいーにープレッピーってなもんで、末端から最高峰まで繰り上げって感じで、エレベーター式のエリート学校みたいな現代歌壇らしいと言えばそれまでだが、後になるほど出涸らしっぽさは残るな。


まあね、時代によって需要も変わり作品の価値も変わるというのは理解できるけど、とはいえ一流の創作物の条件といえばその価値の普遍性じゃん。


これ、同じ賞の受賞者だからって同じだけの力量があるなんて言いきれる選者がどれだけいると思います?


そういう理由もあって史上最年少とか出るのかもな。考えてみりゃ無難な選択だわな。そこまで考えてなくても話題性云々以上に防衛本能が働いているのかも?


そう考えるとちょっとおもろい。


ンでさ、さすがに常連応募者はヤバイって地雷扱いされて、そのへんを差っ引いてそこからまともに読める応募作がどれだけあるかってなるよね?


こんなん消去法でいけばいくほど、おまえに辿り着くって感じだろ?


結社会員を経験している人ならわかるだろうけど、結社誌でも目立つ人はいつも目立っているもんなんですよ。


だからさ、場所は変わっても数が絞られれば絞られるほど、そこの関係者じゃなくても、各結社の作風くらいは検討がつくし、それがお仲間ならなおさら気づくって。


とくに色物を募集しているような賞ならプロファイリングできるだろ。


作品自体が「俺やん、俺、俺、わかる。俺だから」っておもいっきりアッピールしているのがふつうなのに、無記名やんけワレと主張している方が胡散臭いし、あとさ、まんまとはまれば売り込みやすいし主催者側が本選まで嬢ちゃん坊ちゃんに忖度している可能性も否めないよな。


てかさ主催者側の編集部っての?そこで予選とか、その時点で無記名制度が無意味だよね。


そんなん選者様のために露払いをしているだけで、さすがに短歌関係の編集部なら現代歌人様のご子息ご息女の検討はつくだろうし、前年度の次点から佳作くらいのメンツも選別できるだろ。


そんな事はないんだろうけど、やろうと思えば応募作ロンダリングやり放題やん。( ̄m ̄〃)ぷぷっ!


もうさ、こういう疑惑を持たれる時点で制度としてアウトじゃん。


だいたいそこは他人様から評価される短歌のひとつも詠めないリーマンが受け持つんだろ?詠めない人がどんな判断基準で予選を通過させてんだって話だよ。


選者以前の忖度がくせえわ。知らんけど。(昭和の番組でさあ、「こんなんでましたけどー」が決め台詞のおばちゃんがいたんだけど、そんな感じで選者に渡すんかな?笑)


わたしは最初のとっかかりの予選こそ無記名で選者が見なきゃいけないと思うけどね。


その後はさ、大賞候補が5とか10とか出そろった時点で全作ネット公開にしてさ、そこから丸一年かけて一般読者投票でいいんじゃないの?※投票のお礼に割引クーポンでも発行すれば短歌に興味がない人でも少しは集まるんじゃない?それで歌集も売れたらみんな幸せじゃん。歌集購買なら9割引きクーポン発行とかやればいいのに。在庫もはけていいだろ?(そこまで刷らないか?)


ひとつ条件を付け加えるなら、短歌結社会員と学生短歌会のみなさんについては、その親分たる選者がすでに選考しているので投票権は剥奪しておいた方がつまらんトラブル回避にもなるだろうな。(このメンツは賞レースに使われるワンワンだからそれこそ八百長疑惑を生む。)


出版屋だって後の左翼コメンテーターがほしいんだろうから、世間様に世間受けしそうなのを選んでもらう方がいいだろ?


そんなこんなで無記名プリントもいいんだけどさ、現代歌壇の実態(数年で応募総数30とかになったりして)を見せるという意味でも新人賞応募は一回こっきりってのがなおいいと思いますね、ぼくぁ。

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