俵万智さんは嫌われているのでしょうか?
短歌熱が冷めて気が緩んでしまっていたのか今頃になって迷惑をかけているのではないかと危惧している事案が一つある。
記事ネタを書くときは極力個人名は出さず、引用作品も全文出さずにと自分なりのルールを決めていたのですが、「俵万智」さんについてはどちらかと言えばその業績を絶賛しているわけで悪口でもないしって甘えと油断から遠慮なしに名前を出していました。
おまえごときがその名をだすなとファンから叱責を受ける分にはかまわないと思っていたが、どうもアンチ俵万智さんを刺激するカンフル剤になりそうな気配を感じている。
底辺ブロガーの杞憂であればいいのだけど。嫌われ者のわたしごときが迷惑かけそでごめんなさい。
サラダ記念日の時代
当時の空気を知る者として「サラダ記念日」の成功についてはごり押し当たり前の今だからこそ再評価されていいと思っている。
一つに、販売初期からそんな大々的に宣伝されていたかって印象がある。そりゃ売れだしてからはイケイケどんどんだったろうけど、そこまでにいきつく過程こそが大切でしょう。
あれだよね、たしか「サラダ記念日」のあとがきにも著者自身が書かれていたと思うけど、そもそも出版までの過程でも紆余曲折があってとんとん拍子に販売へ至ったわけではないんでしょ。
角川短歌賞受賞そして角川出版から刊行というイメージ通りの流れにはならなかったと。
で、角川さんは後に大後悔をすることになる。そんな顛末だったよね。
「サラダ記念日」ブームがおきてからは便乗商売が活気づいていただけで、後出しじゃんけんっぽかったぞ、そもそも商売ってそんなもんだしな。
たまに目にする糞記事の断片に、メディアによる情報操作ってのか今でいう流行ってる詐欺で読者を誘導してまんまと売れたみたいに言う人がいるけど、それを言うなら「サラダ記念日」以降に出てきた雨後の筍だろうな。てか、ここ数年がもっとも酷いんじゃないの?その状況を見て当時もそんな感じだったんだろと軽口を叩いているのかな知らんけど。
賛否両論人それぞれ好みもあるしそりゃ言いたいこともあるのだろうけど、当時の一般人が見向きもしていなかった短歌をもって社会現象とよばれるほどの大きな成果を彼女が出したからこそ、我も我もとくだらない持論や自作に時間を割いて生きる自称歌人が後を絶たないで存続できたのだ。(ホントに罪深い。)
※彼女が某短歌結社会員であった事と、その業績そして角川短歌賞なくしては短歌総合誌でしかその存在を知る術もなかった短歌結社の隆盛があったかも同時に怪しいものだ。それでも「サラダ記念日」刊行年からちょうど十年後に現代短歌の母胎ってか「アララギ」崩壊がきて今につづく暗黒時代へと没入していくのだから、やっぱりこの十年だろうな。ここに何が混ざって何がおこっていたか、何が台頭してきたのか。わかっている人はわかっていたのだろうけど、やることをやれる人材はいなかったのだろう。あれらとは相容れない存在が絶対に必要だ。
「サラダ記念日」以降数年つづく恋歌ブームに便乗した受賞作品とか歌人同士での褒め合い馴れ合いはこの時期くらいから狂気を増してきたようにも感じるしな。
でも、ぜんぜん売れない。
現実はさ、褒め合い、馴れ合い、宣伝し合った歌集が不人気で売れていないよね。そこで今度は二世歌人の受賞者が爆誕していくんだからスゲエよなあ。人材不足なのってすぐ思ったもん。
誰か現代歌壇の衰退史でもつづればいいのに。詳しい人なら一日で年表ぐらい作れるんじゃないの?
黒歴史。ぷっ(⋈◍>◡<◍)。✧♡
ちなみに「サラダ記念日」は当時の現代歌人様(今も一応いるんじゃない?)からはけっこう腐されていた記憶もあるぞ!
事実を事実として受け止められない日陰者たち。
売れればいいってもんじゃないって、売れなきゃ話になんねえよ!
あのさ、これから何度も書きそうな一節なんだけど、アホのわたしが東京大学なんて糞だよ、要らねえよ。クイズ王とかバカなの?と書いてみて、これを見たあなたはどう思う?
やさしい人なら可哀想な人かなと華麗にスルーしてくれるかもね。
普通の人は病人扱いで通報してくれるかもしれないね。
そして好意的な人なら「言いたいことはわからないでもないよ。でもね君、他人を腐すまえに自分を知らないと恥ずかしいよ。」と諭してくれるかもしれない。でも、そんな奇跡の人は現実には存在しないわけです。
とにかく比較対象と並び立たなければ人間扱いされることはないのだという厳しい現実を受け入れる度量ぐらいは欲しいものです。
俵万智さん「サラダ記念日」の成功については特例だの、奇跡だのと議論の俎上にのせるものではないことにして息を吸っているヘタレもいるとは思うが、そういう連中に限って短歌芸術にこだわっていたりする。
否まずは売れろ‼芸術論は其れからだ。
心優しいおじさんからアドバイスをくれてやる。幼児でもないのに身内に褒められる短歌なんて要らねえんだよ。必要なのは世間に受け入れられる短歌だ。
あなたがたは言う「短歌は文芸であり、芸術なのです。」ここはわたしも同意します。しかし、このあとにつづく「けっしてお金に換算できるものではない。」という言葉には賛同できない。
たしかに「サラダ記念日」を芸術作品と呼ぶのはここまでべた褒めのわたしでさえ抵抗を感じるところはある。
でも、まちがいなく青息吐息だった短歌を桃色吐息にかえた大作なんだよなあ。
世に知られた大作を異端視するのは無知無能の小市民がやらかした魔女狩りとかわらない蛮行です。
でも、それも小市民を煽る悪意があればこそ引き起こされる不幸だということです。
その悪意が嫉妬からくるものなのか、単に実力不足からくるものなのか、いずれにしても情けない事を口にする女々しい輩という印象を受ける。
非常に残念ではありまですが自分に不利益になる存在を貶めるようなことを公言できる人と言うのはだいたい真の実力と評価が一致していないものです。(だから売れっての!)
このような人は巨悪によって生み出された犠牲者と言えば言えなくもない哀れな存在なのだが、人生がかかっつちゃっているし今さら後へは引き返せないじゃんってことで、まんまと最前線において弾除けにされている構図が垣間見える。
そんな喜劇のような状況でさえ取り巻き視点で見ると大活躍している風に映るようだし、当のご本人は論破している俺氏スゲエぐらいに感じているのかもしれないから一切同情なんてしないけどね。
反論たって現代歌人様なら短歌通を気取りながら過去の事例を持ち出してきたり先人の言葉を引用する程度だろ。(時代背景が違うだろ。おまえはいつの時代に生きているんだっての?)
メンタルを鍛えよう さすれば現代歌人様にはなれる
一時期投稿記事の検索順位が気になって自分の記事タイトルをググったりしていた。
その中に「歌人になる方法・・・。」ってタイトルの投稿記事があります。
「歌人になる方法」でググるとですね、Amazonはじめ出版各社のサイト等が順位を競っているのですが検索一ページ目から三ページくらいまでは爆弾の販促記事が少なくとも10記事くらいヒットします。これって相当むかしの著書ですよね。下手したら「サラダ記念日」と同時期ぐらいに初版が出ているんじゃなかったっけ、知らんけど。
これだけ出てくると歌人になる方法というより爆弾になる方法だな。
これは一つの事例にすぎないけど、爆弾に比べれば「サラダ記念日」が売れる前の俵万智さんなど存在していないに等しい扱いに思えてくるのはわたしだけなのでしょうか?
ところで世の中には知られていないだけで歌人を名のる心の強い人は相当数おられるようです。
そんな彼らの多くは所属結社幹部からの推挙などによって例えば投稿短歌欄の選者をつとめていたり、あるいは新人歌人の歌集に言葉を寄せたり、なかなか大物っぽいことをされていたりしますね。
爆弾に代表されるようにみなさん、ことに自社短歌賞受賞者などは出版屋から手厚い保護を受けている様子がうかがえます。
こうして彼らの多くは歌人として(ぷっ)出版屋推しの中でもとりわけ爆弾などのエースを取り巻く従順な下僕としてさくらもといギャラリー(にぎやかし)をつとめながら歌壇界隈を騒がせる役割を担っていきます。
爆弾のようなエースクラスともなれば歌集を上梓しただけで、だれもが知る歌人の名を冠した賞の一つや二つは付録としてついてくるのはお約束として(かぎりなく似非っぽいけど。)権威づけも忘れてはいません。
ところがですね、どうしたことでしょう。そこまで徹底してエースを売るための根回しをされているにもかかわらず、本業であるはずの歌集販売はティッシュ配りのjkをライバルとして彼女たちがレディになる日を待たずにやがて絶版をむかえてしまうようです。
イマジン
想像してごらん。手売りのおっさんを
想像してごらん。ティッシュ配りのjkを
想像してごらん。やさぐれていくおっさんを
想像してごらん。朝陽をあびるjkを
想像してごらん。くたびれたおっさんを
想像してごらん。やわらかそうなjkを
想像してごらん。直立不動のおっさんを
想像してごらん。ノルマを終えたjkを
想像してごらん。在庫を抱えたおっさんを
想像してごらん。ティッシュに埋もれた四畳半
※イマジンオリジナル歌詞を読み返して今さらながらジョンレノンやばいなと思った。
出版屋の後ろ盾とそのパシリである新人賞受賞歌人総動員で万全を期しているはずなのにナニガ問題ナノデショウ
「サラダ記念日」の売れゆきとともに俵万智という一般女性が歌人として世に知られるようになっていった流れとは正反対と言ってもおかしくないのではありませんか。
現代歌人様って下から上まで心が強いよね。(大賛辞)