作品とは結果だ。どれだけの御託を並べたところでその作品が読むに堪えない駄作であるのなら結果は見えている。
同じ言葉を発していても結果が伴わなければそれは公害でしかない。聞くべき人はほかにいる。
短歌を詠め。詠んだらお披露目しよう。志を託した一首には誰かを動かす力がある。この言葉を理解できないのが以下の連中だ。
なんとしてでも短歌と経済を切り離しておきたい謎の実力派歌人様がいらっしゃるようですが、思い返せばその理由ってなんだっけ?
何を根拠にその持論を是としているんだ?
意見の合わない人は素通りするように訓練されてしまったので反射的にそういう人を避けてしまっていて、今更ながら彼、彼女たちの言い分がどのようなことだったのかわからない。
目指すところが違うのでわかる必要もないのだけど、説得力がある言い分ってあったのかな?
反射的に避けるといっても目を引く言葉であれば記憶の片隅に残っていそうなものだけど、空っぽだ。
「短歌は売れなくていい。」その理由にみなさんは納得されているのでしょうか?
現代歌壇の有力者は畑違いな場所に口出しする前に自称歌人の口をふさぎましょう。※自称だから言論弾圧には該当しないでしょ。
支配欲は人並み以上で表に出さず、慎ましやかで控えめな清貧スタイルで自分を装いたい現代歌人様だから「売れない」連呼する赤貧チルドレンよりは「売れ、売れ」連呼してくれるレイモンド飛田の方が歓迎されていると思うのだけどな。
これは前々から感じていたことだけど、現代歌人様は自称歌人を放任しすぎです。
あれは、いっぺんと言わずに懲りるまで繰り返し占めたほうがいい。
自分の代わりに言いにくいことを代弁してくれる有能な参謀か軍師とかいうのならそりゃありがたいけど、ありゃダメだ。いわゆる無能な働き者と指摘される輩だよ。
なんせ実力を証明する自作ひとつ出せないでは説得力に欠けている。
そのくせ言い訳が過ぎるのよ!ああだこうだと出さない理由を重ねて論破した気でいる。
成長過程にあるこどもさんなのか、変な癖がついたまま同じところをくるくる回る茶運び人形なのか、前者はやさしく躾ければいいけど後者は売りもんになんねえよ!
だからオウム返しのように自己弁護するのだろうけど、売れない理由が自分にあると考えられない奴に伸びしろはないよ。
皆無だ。
そのうち動力が切れてプッツンよ、怖えな。
短歌の魅力はたった一首で実力(将来性)を伝える説得力にある。
詠めよ。出せよ。黙らせてみろ。
売れない奴が売れなくていいと語ってもさあ……。最近の若人は皆さんホントやさしいので話を聞いてくれるかも知らないけど、論破不可能と好評されるほどの内容でないと短歌を売る前にアホを売る結果になるよな。
一方で売れる人がさ「お金じゃないんです。」と言えばそりゃそれなりの説得力があるわけですよ。
その人の生き様そのものが発言の意味を証明しているので「お金じゃないんです。」にわざわざ理由を書き連ねる必要すらないんです。
ようは誰の目にもこれは売れそうと思われる短歌を披露すればいいわけです。この人の短歌が好きだ、みんなにも売れる可能性がある。そういう人が「お金だけではないんです。」と言っている。
最低限こういう評価を受ける人が口にするテーマなんですけどね。
消費者を納得させるために一番大切な商品がないまま、わたしの言っていることは正しいから聞けではねえ、相手が自分で思考できる人であれば嫌悪感しか生まないだろうね。
そのように無能な働き者を便利遣いにしている人が有能であるとはお世辞にも言えない。
歌壇の有力者は手痛いしっぺ返しを食らうまえに見切ったほうがいい。
ポーズでいいんだよ。「ネットでイキっている自称歌人と我々との間には一切の関係はなく、万が一当会員であることが発覚した場合には速やかなる退会を勧告し永久追放に処する。なおその行為が極めて悪質であると判断した場合には会報に実名表記の可能性あり。」とでもすれば世間受けは悪くないと思いますけどね。
短歌結社とは短歌を学ぶことはもとより、礼節の大切さなどを学ぶ人間教育の場としても大きな役割を兼ねているとおっしゃっている方もいることだし、反米反日活動に精を出している所なんかは誹謗中傷等には細心の注意をはらわないと働き者に足元をすくわれるかもな。
※こうやって書いてみると短歌結社って情け無用でイメージ戦略に使える捨て駒がけっこういることに気づく。トップはインテリレッドだし、現代歌壇を共産党支部と想定して見ると、そこへつながる短歌結社は消耗品生産部として非情に優れた組織なんだとわかる。現代歌壇は終わっていると思う。思うけど、ワンチャンあるかも。
歌人の理想像を自分に重ね見る歌人でない者たち
歌人は薄幸で貧乏とかさ、勘弁してくれだろう。
まさか、そんな印象を持たれて嬉しいなんて人はいないと思うけど、現代歌人様だからなあ。
やや不安。
事実上の九条歌人代表でもある九十歳女子の大歌人バーバばばさん(仮名)は選評の言葉でよく「進歩的」と褒めていた記憶があるのですが、そんなバーバばばさんを下から仰ぐ現代歌人様ももれなく進歩的文化人のはずです。
そんな進歩的な方々が歌集は売れず薄幸で貧乏なんて前時代的なイメージを持たれてよろしいのでしょうか?
進歩的文化人といえば、悠久の時の流れの中で培われてきた常識や慣習そして伝統文化を否定する場合の常套句としてよく「時代遅れ」なんて言葉を多用されていると思うのですが、その歌人像は時代遅れではないのでしょうか?
なにより、その当時に生きた歌人たちは今に名を残し、その作品は多数の短歌愛好家に親しまれ、現代歌人様の歌集よりはるかに売れているのではありませんか?
時代が彼らを蝕んだのです。
だが今に生きる我々は違う。多様な選択肢がある。そのような我々と先人を重ね見るなど思い上がりも甚だしい。
歌人を自称するにふさわしくない下手糞な作品が売れないのは当たり前なんですよ。だからって時代に埋もれた名作と同じ扱いになるわけがないでしょう。
それと同様に歌人とぼんくらが同一視されるわけがないんだよ。
これを機会にこぼれる涙で曇り切った目玉の汚れを洗い流すがいい。
先人の言葉を引用しているだけの輩より下手でも自作を披露できる人の方が信頼できる。
出せと言うから出しました。でもそれは誰の目から見ても下手でした。それを笑うのかと言うとわたしは笑いませんし、相手がどんなに嫌な人でも見下したような発言もしません。ただ無言です。
そりゃ、おっと反応させてくれる作品なら言う事はありませんが、そこは作品を評価する場面ではないもんね。
評価されるのはその姿勢でしょ。
作品の評価をしないのに、その姿勢をとやかく言う事もしません。それは無礼な行為だと理解しているからです。
古今東西を通じて公共の場に自作を提供する。これはどの創作者にとっても目指していたゴールの一つではありませんか。
恐喝に怯えてショ場代を支払うこともなく、クリック一つで不特定多数の他人様に自作を見てもらえる。それだけでも恵まれた環境にあると言えるわけですが、自称歌人をはじめ、彼らが師と仰ぐ現代歌人様の中には何を思い違いしているのか未来を切り開く宝の地図のように自作を抱きしめて現実に向き合えないで立ち止まっている人がいる。
そのまま人知れず朽ちていくのならそれでもいいのです。でもそれは彼らには我慢ならない。
報酬が要らないのならなおさら出せばいいのです。
でも出さない。出せない。
隠すことで歌人という肩書に神秘性を纏い、自分を神格化できるとでもお考えなのでしょうか?(中二か‼)
※現代歌人様には天皇制反対とか叫んでいるお仲間も多いはずなんだけど、言ってることと、やっていることが正反対なんだよなあ。
人間宣言からすっかり開かれすぎた(と個人的には思っている。)皇室に対して、おまえらは何を今さら神様目指しちゃってんのよと変な笑いがでてしまう。
こういうのをアンビバレンスってんだっけ。( ´艸`)
ところで私的な話になりますが、わたしの血縁には二桁にものぼるカルト信者がいるので、その手のやり口ってのか、なんとなく感覚的にわかるんですよねえ。
人生には惜しんではいけない事柄がある。無から有を生み出せる創作者であるならなおのこと自作は出せるはずなんだけどね。
作品を出し惜しみする創作者なんて聞いたことがないわ‼
発表後の盗作を恐れているのなら商品としてだせばいい。作品に値段をつけるななんて一言も言っていないのだから好きな数字を書いて出せばいいだけなんだけどな。
壺でも絵画でも現物を見て買うだろ。むしろ高級品であればあるほどじっくりと吟味してから買うよな。
短歌芸術にこだわる現代歌人様なら、じっくり自作を味わって欲しいという欲求があって当然だろうに、おそらく現物を見せたらいつか出す歌集が売れないとか思っているのだろうね。
そういう発想がどれほど古臭くて貧しくて矛盾したものであるかがどうして気づけないのだろう。売りもんは歌集だけじゃないんだよ。色紙でも皿でもTシャツでもNFTでもいい。そこに付加価値を与えるのが自慢の短歌じゃんね。
自作は出さない。出しませんとか「わたし偽者です。」と白状しているようなもんだと思うけどな。
そのくせそういう輩にかぎって、自作を提供してくれた人に感謝をしないで腐す。
そいつがもっとも腐っているのは言うまでもないが、自分でなくても腹が立つ。
ではなぜそんな不毛な行動をとるのか?
自作を出すという勇気ある一人一人の行動がやがて大きなうねりとなって自分たちのようなどうでもいい存在を飲み込んでいく恐怖を感じとっているからでしょう。
こういうのはこの手の生き物ほど敏感やもんな。
だから新しい流れを堰き止めるため必死になって心をへし折ろうとする。
負けるな。