【本当は危ない現代短歌②】歌人とは名ばかりのスーパーボランティアが跋扈する短歌結社

2022年4月23日

現代歌人様 短歌

 




かって書生と呼ばれる人が沢山いた時代があった。


そして時代は令和へと移り、その道で大成し大家として名を成して生きていけない人たちは無償の愛に生きようとする傾向にあるようだ。


地力のない彼らなりに考案した唯一生きたい場所で褒められて過ごせる方法なのかもしれない。


「スーパーボランティア」後継者として名指しされることはけっしてないけれど、雑用現場ではその名を知らない者はいないであろう自称歌人たちである。後の世では反面教師として語り草になる愉快な面々でもある。


短歌をやりたい人が現代歌壇に憧れるのは大いなる過ちである


短歌に興味を抱いた人が最初のとっかかりとして短歌結社への入会を希望する気持ちはわからないでもない。


だけど実はその前段階があるのだ。それはたとえて言うなら入会テストのようなものか。


それは誰の手垢もついていない状態で投稿歌人としてデビューすることだ。新聞でも雑誌でもなんでもいいからとにかく自作短歌を応募することが大切。


そのうちお声がかかったら検討してやるくらいの気持ちで入会を考えればいい。


お声がかからない人はその時点で他の楽しみを見つけた方がお金や時間の無駄がなくて済む。


これをやる期間についてだが、三ヶ月も必要ない。


なぜなら、あなたが短歌に興味を抱いた時点で、あなたの歌人としての素養は動き始めているからだ。


それはある歌人の作品を見て刺激を受けた瞬間からかもしれないし、七五調のリズムがなぜか心地よく弾む瞬間を意識するようになった日からかもしれない。


短歌結社とは没投稿がつづいている人が入会して報われる組織ではない。

できる人は習う前からできるし、できない人はいつまでやってもできない。


今はどうなのかわかりませんが、二十数年前の短歌結社はどこも資料請求すると送料無料で会誌を送付してくれました。


何社くらい請求したのかな、今も現存している有力結社ばかりです。


そのうち結社からの反応が知りたくて幾つか自作を送ってみた事があったのですが、とある一社から合同歌集に入れる一首にあんたのも入れてええかと連絡がありました。


権利でもめるなんて嫌ですからね、しっかりした組織だと思いましたよ。


思いがけず短歌結社から自作を使いたいと連絡をもらうという経験はたとえ数合わせにしても気分はいいものです。ただ外部の人間の作品まで必要なのかとそちらの結社の組織力については疑問符をつけましたけどね。


短歌なんてそもそも手をつける人口が少ないので、ちょっと目立てば引く手あまたになるのは想像していましたが、予想以上の手ごたえは感じました。


今ある最高の一首はそののち短歌を楽しめる人生かそうでないかの岐路を指示してくれるものなので公開することを惜しんではいけない。

信頼できる短歌結社を探すより自分を信頼するのが先


駆け出しのくせに今ある一首を惜しんでいるようなしみったれの小心者には誰も将来性を見ることはない。


これを出してもこの先これ以上の作品なんていくらでも量産していけると平気な顔でとっておきを投稿できる人でなければ、一定水準を保ちつつ高評価を積み重ねて持続していけないわけだから、読者を満足させる歌集を送り出すなんてとてもじゃないがかなわないだろう。


結果として自分が潤うこともない。


自分を信じていない奴をどうして見ず知らずの赤の他人が信用することができるでしょうか?

短歌結社に所属する会員のほとんどは人知れず死ぬ

当たり前の話ですが結社会員になればその日から短歌が上達するわけでもなければ、歌人になれるわけでもありません。


それと勘違いしてはいけないのが、結社に所属すれば自分が希望する人から手取り足取り手ほどきを受けられるわけでもないということです。


短歌結社とはわたしが知る限り決められた歌数を毎月投稿して会員同士が会誌を通してお互いの作品を読み合って終わりです。


ようは作品発表の場でしかありません。


選者からの題詠があれば提出した作品への添削が入り、創作上の問題点に気づきを得る機会はあるかもしれませんが、それも頻繁にあることではないでしょう。


そもそも基礎の基礎から学ぶならまだしも、いきなり実践から入るわけですから、下手したら選者の自己満足に付き合わされて自分を見失う最悪の結果を受け入れる羽目にあいます。


どうしても短歌結社に入会したいのであれば、あらかじめ自分の方向性を確認してからにしないと選者のおもちゃになる。

現代歌壇は逆算の思考で辿っていくことがとても大切


現代歌壇の支配層に顔を並べる人たちのプロフィールを見て、彼らの職業と政治思想を見ながら自分が目指す方向性と照らし合わせていけば、歌人を志して現代歌壇に参加しようと判断する人は稀だと思うのだが、相変わらず短歌結社は存続している。


ところが短歌結社のしぶとさに反して以前よりも世に知られた短歌も歌人も減少しているように見えるのはわたしだけだろうか?


このように見える理由はおそらくこうだ。歌壇の中枢に招かれる人の多くがあきらかに短歌実作者としての能力が低く、どちらかと言えば歌人としての成功より権力者のコネを手にして社会的成功につなげたいと考えていそうな頭でっかち(先生だよね)がやたら目立つ事と、招く側は招く側で左の勢力を拡大したい頭でっかち(先生だよね)が目立つからだろう。


とはいうものの仲良くやれば就職や出世に有利になりそうだし、わたしでも秀才さんに生まれ変わって現役の京都大学や東京大学の生徒になれるなら、(ねえねえオルグしてえなオルグしてえな)と思いながら学生短歌会に入るかもしれない。


だって、あの面子じゃん。


先生の前でだけは左翼的な発言をしながら短歌で食い込んでいこうとするかもよ。(反応をみているだけでおもしろそうだし)


まじかに退職をひかえた教師にしたってそうだよね。もしかしたら教授の席が空いているかもしれないから椅子取りしたいじゃん。


有力者の口利きは大事よ!


ようは学閥による権力を有効活用できる人材が現代歌壇あるいはそこへ至る短歌結社への参加に向いている人になる。


ただ、言うても短歌を統べる歌壇だから、短歌の実力が突出している人だけは例外中の例外で相応の待遇は受けるだろうけど、そういう人って短歌結社や歌壇が必要なのかって話にもなる。


でっ、残るのが本日のお題の主人公たちになる。


ほとんどの人は自己満足に浸りながら人知れず死んでいくので無害だが、中にはスーパーボランティアとして目覚める人がいるのだ。


もちろん短歌の才能は無い。

 不都合な真実がでてくると火消しに奔走するスーパーボランティア


投稿や公募に応募するのは然るべき場で修行をして、ある程度自信がついてからできれば師匠にお伺いを立ててと律儀に考えている人がいるのかもしれないがこれは本当に大きな間違い。


万が一結社会員になることで巷で囁かれるコネ受賞を狙っているのなら、上述したように提供する側にもリスクが伴う行いになるので、もしも本当にそんな悪事が発動するのならその対象は自分たちにもメリットがある人材か、できの悪い身内などやむにやまれぬ関係の存在かに限定されると理解しておいた方が精神衛生上よろしいでしょう。


自分最高、自分大好きな独裁者タイプにいくらなついても能無し無才の一般会員のために裏口は用意されていない。しかしいくら同じことを繰り返して言っても一部の人の中には耳を貸さない人がいる。


所属結社や幹部のために身を挺して尽くそうとする愛社精神や正義感は褒めたいところですが、こういう律義さと呼ばれるようなものは創作においては作者としてはおろか人としても自分を貶め成長を阻害するものでしかないのだ。


その行為は結局のところ自身の力不足に喘ぎ苦しむ茶坊主がけっして自分に向かうことのない権力を欲して暴走している姿に過ぎない。

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