【本当は危ない現代短歌③】詠めぬ・知られぬ・売れませぬ・天才歌人に撤回はないのだあ

2022年6月13日

現代歌人様 短歌






宮城音弥さんの著作「天才」は十代の一時期何度も読み返していた。


そこでロンブローゾだったか、クレッチマーだったかの「天才とは社会から認知された瞬間から天才となる」という言葉を紹介されていた。


今またバイロン卿の名言「目が覚めたら有名になっていた。」を思い出しました。


平成から令和とまたぎ現代の天才歌人は未だ夢の中を彷徨うているようだ。

天才を追う者達そして歌人はいなくなった


底なし沼に落ちた者は最期の瞬間まであがき、やがて青く広がる空を見上げながら地上から消えていく。


万年落選組でも手を伸ばせば届きそうな木偶の坊を天才歌人と称して担いでやれば、それを止まり木として彼らは詠いつづける。


それはまるで気のいい百姓が開けた窓からお天道様に感謝して朝を迎えるように、自称天才歌人の歌集を開いてはその手に明日への希望の架け橋がかけられているような気になって生きる自称歌人なのであった。

自称天才歌人それは自称歌人の誰もが成り得た自分である。

現代歌壇には自称天才が誕生し易い背景がある


未だ「夭折の歌人」なんて存在をありがたがっているのもそうだが、主宰はもちろん同人までも含めた会員同士の馴れ合い、褒め合いがあまりにも常態化しすぎて、一時期のはてなブログか現代歌壇かと揶揄されるほど一部からは互助会の相互扶助と小バカにされている現代歌人様方の批評会。


心優しい人たちの集まりの中でみんなが互いに一生に一度の思い出作りに貢献していると考えれば、それもまあ悪いことでもないのかなとは思うけど人間とは弱い生き物なのだ。


「ここは弱い人間同士が集まり互いに慰めあう場です。」と明言して、文人の集いとはやや距離を置いた環境である事を皆に周知させていれば、それは素晴らしい事だとわたし程度でもそれなりに感銘を受けますが、現代歌人様曰くあくまでもそこは文芸を語り合う座なのであった。


残念無念しかしながらそこに真はなかった。


座とは何事にも動じることなくそこに居るだけで絵になるような大人物が揃って囲うからこそ成立するものであって、無名の一般人が自慢の品を持ち寄っては互いの顔色を伺いながら足並みをそろえて褒めちぎりあうオフ会のようなものを言うのではないと思うわたしなのであった。


それはというよりもだ。誰ひとり終着駅に送り届けられずにいつか脱線する電車ごっこでしかない。


とは言え時代が座をゆるさない。どのような危険分子でさえも排除をゆるさない現代という時間に生きる人の中にはかならず勘違いする人も現れる。


その中でも最弱と言える存在こそが今回の主人公である自称天才歌人なのだ。


経験や才能という天才として肝心要の要素はさておき、時代に翻弄される人という意味では天才の条件は一つクリアしているわけで、そのへんを拗らせた結果として自称天才歌人は爆誕するのだろう。


本人も家族もその気になっちゃうんだよなあ。(棒)

現代歌壇での天才は自己申告制が基本となっている模様


自己申告がまかり通っている時点で上述した天才の定義からは外れるわけだが、そこは革新派の進歩的文化人の巣窟でもある現代歌壇ですから、本人が天才と言うのなら自己責任と言う事で天才と認めてくれるのでしょう。


歌壇界隈としては消えてもともと、当たればラッキーくらいの軽い扱いなんだろうなとは思うが、安全かつとてもコスパがいい飼いならし方だ。


それでもなんだか言ったもの勝ちのような気もする。


そんな思いの中で目に浮かんだのは、人骨が如く木組みの椅子が無残に散らばる教室で、唯一残された椅子にただひとり自称天才歌人が腰を下ろす殺風景なものであった。


そう、それは世紀の天才が一見過酷な椅子取り合戦を制したようにも見えるが、その実態は力なく滅びゆくしかない運命にある連中の巣に出向いた解体屋のおっさんが一服しているだけの光景なのである。


笛を吹いているのは誰なんだろうかね。


誰かが笛を吹きさえすればいとも簡単に天才は現れる。古来からの約束事を破り、固有の文化や価値観を恥じ破壊していく、グローバル社会とはそのような世界なのだ。


心ある人にとって天才が出現しやすい業界は要注意ってこったな。(こうなってくるとアカよりむしろカルト教団がヤバいな、がんばれ皇室!)

自称天才歌人とは歌壇が歌人の巣ではなくなりつつあることを感じ取っている自称歌人のことである


廃れていく業界に鼻が利く人なのだ。


そこにはもう自分の存在を脅かす者は居ない。たとえ一瞬でも天才になりたい人はみなさん自称天才歌人にならって伝統文化に着目すればいいと思う。


心ある指導者が踏ん張っているところでは事前に対策を練っていて害悪をうまくかわす術は心得ているとは思いますが、そうではないところ、たとえば入会資格に国籍を問わずとしているところなどはとくに狙い目でしょうね。


現代歌壇は言うまでもなく、伝統文化の宝庫である日本ではこれからもあらゆる伝統文化に対して怒涛の破壊工作が進んでいくでしょうから、破壊度ランクを5とした場合の3以上を狙えば、あとはやけくそ気味に日本人としての心さえ捨ててしまえばめでたく天才あるいは大御所になれるチャンスを拾えるかもしれない。


あなた自身がワルを自認しているような方なら左団扇で暮らす生活を満喫しても苦悩することはないはずだ。


その点では潜在的敵性国家より渡来して来た○○系反日帰化日本人なんて、越えるべきハードルさえもないわけなので、自称天才以上に後継者としては適任と言い切ってもいいくらいだ。


そんなバカなと人は言うかもしれない。しかしそんな戯言が今まさに実行されているかのように、昨今の日本国内での外国人礼賛の波は大きくなるばかりである。


業界としては末期と指摘される要因とも受け取られかねない外国人称賛ではあるが、現代歌壇などでも時々見受けられる光景のようだ。


それが長期に渡り現代短歌への愛情と献身を尽くしてきた自国民をないがしろにして、実力や将来性よりも思想と話題性を優先した授賞でないことを信じると共に、その受賞者が歴代受賞者にも匹敵する真に優れた創作者であることを願うばかりです。


片や自称天才歌人は現代歌壇の救世主となるべく、今こそその真価を発揮する時でもある。

時に作品よりも波乱の人生をもとめられるのが天才である


人間とは残酷な生き物である。


お隣の家庭問題でさえ気になりエンタメ化してしまうのが、ふだん刺激が少ない生活をおくる庶民の感性なのだ。


天才ではない自称天才が天才として生きる。


このような存在を現実の世界で目の当たりにしてしまったのなら、これからおこりうる転落の軌跡を最期まで見届けたいと願うのは庶民の本能としてはいたってまっとうな欲求と言えるものだ。


幸か不幸か現代歌壇とはそのような出会いを演出する場となり果ててしまった。


自分を見る目が読者のそれなのか、それとも観客のそれなのか、華やかな表舞台に立つ自分に酔いしれながら自称天才歌人は詠う。


だが売れない彼を知る人は歌壇の外にはいなかった。


今はまだ喜劇王としての活躍を期待されているが、やがては悲劇の人として転落の軌跡を描く人生劇場の第二幕が繰り広げられていくのかもしれない。


ある人はそれを「そんな御大層なことではない本来あるべき場所に戻るだけのことだ」と、せせら笑っている。


しかし誰が何と言おうとも彼は神が与えし才能を有する自称天才歌人なのだ。


今後彼の身に降りかかるあらゆる災難も不幸でさえも天才が天才であるための条件として自称天才自身もそのシンパもきっと喜びに変えていく。


信じる者は救われるとは、まさしくこのことである。神に愛された男なら天才を自称するのも致し方の無いことなのかもしれません。※時代背景も影響しているのですが宮城音弥さんは当時の女性には天才はいなくて代わりに能才がいるのだと書かれていました。


アーメン。

こだまするかんせい君は私で私は君だ


天才の声を聞いた自称歌人が自称天才歌人を仰ぎ見そして「天才」と称えることはすなわち明日を生き抜くために必要な儀式である。


彼は私であり、私は彼なのだ。


足下にゴミが散らばる裾野から山を見上げる者にとって天才とは、わずかなゴミでさえも留まることを許さない遥か彼方の頂に君臨する雲上人の如き存在なのである。


国土の七割ほどが山岳地帯の山国である日本では、古来より立派なお山を霊山として崇拝する感性が国民に培われてきた。


それはやがて山岳信仰と呼ばれるものへと昇華されていった。


こうして時には自然と戯れる場として、時には修業の場として恐怖と親しみとを併せ持つ山は時には才人の比喩としても扱われるようになる。


山積みにされた在庫を前にして自称天才歌人が叫ぶ。「おれは天才だー」


そして歌人はいなくなった。

QooQ