「その車両には三名の乗客がいた。」
さぶよ、今日のおまえもラブリーじゃのう。
どや、ここらで一発?
兄貴、おいら、おいら、兄貴になら抱かれてもいいっすよ。
さぶよ、さぶよ、さぶちゃんよー。
兄貴を見つけたら一心不乱に兄貴を想う。さぶとはそういう一途な男だった。
兄貴が詠めば、さぶが読む。兄貴が書けば、さぶも書く。ふたりの筆が交錯する。
おっさんたちの挽歌 たぬきのふんどしをパクるきつねども
あなたが短歌に興味を抱き、そして作歌に励もうと思われたきっかけはなんだったのでしょうか?
教科書に掲載されていた短歌に刺激を受けたから、あるいは好きだった先生から教えてもらった短歌が素敵だったから。それとも、立ち寄った書店で手にした本がなんとなく記憶の片隅にあった人の著作で、たまたまそれが歌集で自分にも詠めそうだと思ったから。
いずれにしても歌集よりさらに発見率が低い歌論書をわざわざ手に取って短歌を始めた人は極めて少数派になるのではないでしょうか。
※入門書については作歌を思い立ってから手にするものという認識です。
そんなところから一短歌作者が歌詠みとして大多数の短歌愛好者に認めてもらうための最適解は自作短歌を発表することだという結論に至っています。
ほとんどの会員にとっては作品発表の場でしかない短歌結社がこれまで存続してこれたのも彼ら彼女ら短歌実作者としての顔を持つ短歌愛好者が集う場であったればこそだと思っていました。
ところが現代歌壇はあれですね。熱い議論を交わすこと自体を否定はしませんが、気に入らない存在があるのなら他人の作品を出してきてとやかくなんて半人前以下がするような非礼は止めて、まずは持論を証明し得るだけの説得力を備えた自作でねじふせてほしいものです。
互いを認め合うという意味からも、それがもっとも平和的な方法である。
それにそれなりの歌歴を有した人物がその程度のことでさえできないではどのような権利があるにせよ他人様を引き合いに出す資格がないのはもちろん師事している人から信頼されているはずもないだろうからね。
親しくもない輩にタダ乗りされて喜ぶ奴なんていねえんだよ‼パコーン。
取り巻きとファンの違い
現代歌壇外の一般読者層から自作の短歌ファンを持つ人として見てきたのは、ご存じ俵万智さんと営業努力の賜物かなとやや微妙なところがあるドラえもんだけ。(お二人さんお名前出してごめんなさい。m(__)m
あとはその人たちの周辺が大声を張り上げているだけとしか思わなかった。事実気にしていないと誰の名前も聞こえてくることはなかった。
それはまるでデモ隊のようなものか、実際デモをライフワークにしている(いた)現代歌人様も存在するくらいだからそれこそが現代歌壇の現実なのだと思う。
余談だが、むかしから共産主義者は数字を盛ると言われていたし、そのまんまのタイトルの本もあった気がする。
最近だと安部元総理の国葬反対デモでの数字ですね。
あれってたしか主催者側発表の数字と警察発表の数字があって主催者側発表の数字が15000人で警察発表の数字が500人だった。(それでもまだ盛っているという噂もある。)
15000人って相当やで。全校生徒千人規模のマンモス校が10以上。現代歌壇の指導層には学校の先生が多いから遠足や登下校の列を想像して気が遠くなっていることだろう。
分断をアピールしたいからって、やりすぎ。
かたや自分自身の意思で一般献花に並ばれた方の総数がおよそ25000人と言われていますね。
取り巻きの数なんて恥の上塗りにしかならない。
歌壇では有名でもネットでは無名の現代歌人様
理想を言えば名作は一人歩きをするものだけど、ネット社会となった今でも現代短歌では一度も目にしたことがない。
ネットで短歌漁りを始めた当初に出向いたのが「短歌村」とかいうサイトだった。
そこではランキングがあって、上位のサイトは拝見させていただいた。それから五度も行ったサイトはひとつもない。
それでも彼らは自作を発表されているぶん有名人風を吹かせているだけでどんな作品を詠んでいるのかもわからない結社歌人に比べれば読者に対して誠実に向き合っているように見える。
歌人を自称するならせめて歌人としての名声を不動のものとした代表作、近年最高の自信作、読者人気がもっとも高い作ふつうなら世に知られていて当たり前の作品とも言えるこれら各一首あわせて三首くらいは出しても惜しくはないだろう。※すべての作品がそれに該当するとか、そういう詭弁は要らねえから。
それ以上を求めるほどわたしも厚かましくはない。
普段から他人様の作品をああだこうだとぬかしているのだから自作の出来の良し悪しなんて迷いなく判断できるだろ?まさかできねえなんて事はねえわな?
「だ・せ・よ。」
そうでもしてくれないと現代歌人様なんだけども、毎度何様なんだと言いたくなっちまう。
昭和脳を自認するわたしが言うのもなんだが、今は平成も過ぎた令和なわけですよ。同じ組織内の人間同士がインタビューだの対談だの昭和の処世術「ヨイショ」を令和のネットに持ち込んで大物感を煽るのは止めた方がいいよ、みっともねえ。
紹介するなら過去のしょぼい武勇伝より今の一般読者をKOするくらい衝撃的な一首が先でしょ!
誰かが良いと言うものより自分が良いと感じたものが正解
短歌関連の検索をしていると、だれそれの「代表歌」と今まではあまり目にすることがなかった関連キーワードがあることに気づく。
一般ユーザーが「短歌」で検索する場合は気になる人の作品を知りたい場合がほとんどだと思うので、その人の名前で検索すると「代表歌」が関連キーワードに目立ってきたのはとてもいいことだ。
現代歌人様には「読み」という相手のツッコミを倍返しにする究極奥義もあることだし、少々の酷評なら逃げ切れると判断したか、あるいは逃げおおせないと悟ったのか自作の一部を解禁したようで、これはいずれにしても自作に賭ける若手には朗報である。
なぜって、その代表作も含めて彼ら現代歌人様を知っている一般層なんてほぼいないでしょうから、短歌作者としては若手も指導層も同じ出発点に立っているようなもんです。
誰が書いたか随分むかしに「第二芸術論」への反論とかいう書き物を拝読させていただいて、なるほどなあと感心させられたのですが、それでも俳歌人には悪夢のような存在である桑原さんの指摘は愉快に感じていて「プロアマだあ、ぺっ」好まれた作品の方がいいんです。というノリは嫌いではない。
詠むたびネット民相手に「読み」なんてめんどうくせえ独自解釈を付け加えていたら、作品共々作者は歌人生命を縮めるだけだと思うんだけど、知らぬは取り巻きだけで発案者はそれも想定済なのかもしれないね。
まあ、もともと魂のないゾンビか操り人形みたいなのも多そうだし気遣いは不要ってことなのかな。
のちの世ではネットに来たのが運の尽きと評される自称歌人が続出しそうでオラわくわくしてっぞ。
素晴らしい短歌が普及しない理由は短歌結社内での師弟関係に信頼がないからだろ
すげえ怒りを買いそうだからお名前はだしたくなかったんだけど、以前も書きましたがわたしは吉川宏志さんの過去作が好きなんですよ。_(._.)_
素晴らしいなあと思いました。
なんだかんだと言っていますが、そんな素晴らしい短歌は他にもあるのでしょう。
でもさ、その素晴らしい短歌を知るのはごく少数の限られた人だけで一般人の目につかないのが現実なんですよ。
これはどうしてかって、様々な理由があるわけですが大きな理由のひとつが宣伝不足ですわな。
歌壇っておかしいなあと思うのは、しょうもない短歌は褒めるのに、もっと世の中に知らしめるべき秀歌、名歌はアピールしない。
ひかえめな文化人アピールもいいんだけど、せっかくの秀歌が知られないんじゃそれも効果は薄いよね。
だからと言って、他人様の心を惹きつける短歌のひとつも詠めない連中に軽々に言いふらされるのも困るということで表に出づらくなっているのかなと見ている。
短歌結社会員ならさ、電子掲示板やSNSなど場違いなとこで底辺同士が争っていないで師匠の作品の幾つかくらいは自慢してもゆるされる存在に成長してほしいよなア・ニ・キ。