三流以下の自称歌人は歌集に求められているものが何かをわかっていない

2023年3月6日

現代歌人様 短歌

 



歌集が読みたいのではない名歌に出会いたいのだ


秀歌、名歌、代表歌は一首単位で評価されているのが普通ですね。歌壇史に残る歌集として一定の評価を受けている歌集ですぐに思いだされたのは石川啄木さんの三行書き歌集と、それに影響を与えた土岐善麿さんのローマ字歌集くらいかな。


もちろんそれら以外にも良い歌集は沢山ある。


では、これより過去三十年において歌集単位として読者に問題提起と発見を促したものは何があるんだろう?


初めてかな文字を使用したとか、表現上初めて性別を偽ったネカマの元祖かなとか、メタファー・オノマトペによる批判性とか、記号を用て注目を引くとか、カリグラムで組み上げたろかとか、歌集単位の評価と言うとだいたい定型詩の可能性を探求した表現技法についての試みを評価するものばかりであり、当時の社会情勢とそれらを絡めて気に入らないものを糾弾するというのが現代歌壇特有の様式美だったと思うんだがなあ。


サンボ(リスム)マスターの塚本邦雄さんなんて、けっこうな数の歌集を刊行されていたはずだけど死後その名を聞くことはほとんどなくなってしまったし。


それでも幾つかの有名歌だけは今もわたしの中で思い出される瞬間がある。


たまにその前後に詠まれた短歌が気になるのは事実だけど、基本的には気に入った短歌が掲載されている歌集だから手に取って開くだけで、歌集のタイトルそれ自体がお気に入りを示す付箋のようなものでしかない。

歌集刊行までの一連の流れを遡れば一首の重みにたどり着く

歌集に収録されている有名な連作と言えば斎藤茂吉さんの「死に給ふ母」なのではと思うけど、中でも「遠田のかはず」と「のど赤きつばくらめ」は最有名ですね。


他が悪い、つまらないというわけではありませが、60首ちかくもある連作中で語り草になるのは決まってこれら、それと同じように短歌賞受賞作品なんかも特に際立った数首が議論の俎上にあげられていくにとどまる。


この時点で全受賞作品を見ている読者はそこいらじゅうの結社会員をかき集めてせいぜい数千と熱心に新人賞に応募していた数百(これ数千にかぶっている数字だからね)に絞られるんじゃないの?


音楽のアルバムに例えるなら受賞作品はシングルカットされた曲なわけで、それを大いに気に入れば他でスカを喰らってもアルバム(歌集)も購入するだろうけど、この時点で数千の固定ファンもつかめていないってのは将来を暗示しているんじゃないの?

名版には秀作が収録されているもんだ

熱心に新人賞に応募して結果のついでに受賞作を見ている短歌結社会員以外の人が歌集購入のきっかけとなる動機はなんだろう。


短歌総合誌を購入しなければ受賞作品も見られないと思うし、短歌結社に所属していなければ10首以上もある連作も目にする機会はないような気がするし、そこで名もなき「ぼく歌人」の歌集を手にするきっかけってナンだ?


甥っ子が小さい頃は市民図書館に連れて行ったりしたので、ついでに掘り出しもんの歌集はないかと漁った時期もありましたけど、それ以外だとブックオフの100円コーナーでしか手にした事がないマジで!


ああ今ならネット歌人つながりで、口コミやなんかで購入にいたるのかな?


それにしたって一万人の手に渡る歌集って10年周期で見て何冊あんねん?


歌集での評価をしている短歌賞もあった気がするけど、それもだいたい新人賞受賞作品が収録されている処女作で貰っている人が多い印象があって、処女作で受賞している人はだいたいその後も歌集刊行ごとになんらかの賞が付与されるのが慣例になっていたような気もする。


それが受賞作品に値する素晴らしい歌集ならなんの問題もないし、わたしはそのへんには興味も無い。


ただ、そのわりには「遠田のかはず」や「のど赤きつばくらめ」のような世に知られた作品が出てこねえな、なんでだよとニヤついてしまうだけだ。

一般的に糞歌集は全編を通して糞

そりゃ例外はあるでしょう。


読者とは消費者でもあるわけで、歌集として糞でも、中に一首でもこんな短歌を自分も詠んでみたいという傑作があれば、他が糞でも感謝の気持ちと次作への期待と応援も兼ねて投資をするわけだ。


それくらい読者にとっても短歌一首には価値がある。


音楽アルバムなんて、お気に入りがあればヘヴィローテーションで聴くからほぼそんな気持ちで購入していた。


ところで、成功している歌集はだいたい表現技法とテーマが一致しているでしょ。


普段使いの表現で感情を表にだすとか、恋愛と口語なんてわかりやすい成功例じゃん。


支配層と言うのか、指導層に占める先生率が異常に高い現代歌壇だから読み物としてテーマ重視で歌集を見るのは、その性質上仕方ないのかもしれないけど、自分が得意とする土俵の上で未熟な人を相手にしている先生に比べて、世の中の大半の人たちは広くそして苛烈な世界で頭を下げつつ臨機応変に生き抜いているので、自称歌人が描く世界観なんてのは彼らが思うほど知的好奇心が刺激されたり、感銘を受けるような事はほぼない。


その内容のほとんどは、保母さんが見守る園内で同年代の幼児がお遊戯の時間的な空間を共有しているような、ほのぼの漫画だろ。


・・・「書を捨てよ町へでよう」その結果として寺山修司さんが誕生すれば素晴らしいけど、二匹目、三匹目のどぜうでしかないわな。


こう言っちゃ悪いけど、結社歌人歴が長くて自慢の一首すら出せない歌人(自称)なんて詰んでいると思うよ。

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