歌唱教室に通う生徒が村の歌合戦で優勝したことに気をよくして勢い都会に出たはいいけど、うたは売れず瞬く間に飲み屋街をドサ回りする流しに落ちぶれていくというのはよくある話だ。
ところが、そんな人たちの中にも運命的な出会いを体験する人がいる。
たまたま飲み屋で出会った客の一人と意気投合して身の上話をしてみれば、同郷のよしみだとか言って安定した生活をしていくための資金を出資してくれる幸運に恵まれたりするのだ。
でっ、なにをするかだって。
自分が人に教えられることがあるとしたら、むかし通った歌唱教室で学んだノウハウくらいしかない。
俺はうたで生きる。
ネット短歌界隈のスラム化により現代歌壇はより高みへ
躾がなってねえ。
現代歌壇は見れば見るほど知れば知るほど、人間とは躾が大切な社会的動物であることを再認識させられる。
そのうち反社認定されちゃったりして。破防法適用やで!
結社歌人歴ん年あるいはもっと。歌人を自称するのも憚られるお茶目な自称歌人がクリック一つで一般層になだれこんで来る事によっておきる重大な弊害。
それはネット短歌界隈全域がスラム化することだ。
富豪の屋敷から金品をかっさらって、それらを貧民街でばら撒いた義賊のごとく、歌壇に残されたお宝を吸収して気前よく秀歌、名歌をばら撒けば、人の心を豊かにしてあげたり未来に希望を生み出したりすることもできるのに、手ぶらで「オッス、おら歌人」だからなあ。
貧しいよね。
若者いやさ老害の評価にすべてをかけるバカ者たち
読者を惹きつける短歌が詠みたいのなら小者は無視することだ。
何かといえば「老害ガー」と囁かれる現代において高齢化と歌人の質の低下は現代歌壇も例外ではない。
一見して未来ある若者からは敬遠されてもおかしくないはずだが、老害が実権を握る短歌結社には今も一定数の若者が参加しているようだ。
大勢の人がやりたいことが見つけられないと嘆く中で、若いうちに骨を埋める場所を見つけられたのは僥倖である。
そんな彼らが一短歌結社会員から歌人へと成長していく過程で目標としているのが、新人賞受賞であったり、大手出版社から歌集の刊行をすることであったりするわけですが、残念ながらそのほとんどは目標達成に至ることがないまま、惰性で所属結社同人としての地位を目指すことになる。
また度重なる落選によって才能に見限られていることに気づいてからは、それまで短歌に費やしてきた人生の元を取ろうとして評論家を志す輩も現われるが、そもそも自作で生き残るセンスさえない凡愚なわけで、はしたない知識を養分にした自尊心だけが無駄に肥大化していくだけなのである。
さりとて歌壇で相手にしてくれる者などいるはずもなく、ネットで暇を持て余しているうちに禁断の扉を開けてしまった結社会員が明日のSNS歌人になったり短歌掲示板の常連になったりするのだろう。
おつとめご苦労さんッス。
金、コネ、才、運も無いのに迷い込んだら人生終了。スラム街として唯一ふさわしいのは現代歌壇だけである。※会費もとってるし責任もとってね♡
わたし自身が作品至上主義なので受賞歴や歌集刊行が歌人の証明になるとは考えていないが、歌人への道筋として短歌結社会員になることを選択された皆様については歌壇での評価を重視した生き様を見せてほしい。
それこそが今後の短歌結社の繁栄にも繋がることではないかと考えているからです。
ところが現実は、有名無名を問わずネットに溢れる結社歌人の目立つこと。
一昔前のネット歌人と言えば結社歌人の足元にも及ばないド素人という扱いをされていたように思うが、結社歌人は今そのレベルにまで落ちているという理解でいいのだろうか?
いずれにしても短歌結社あるいは歌壇での存在感を示せなかった元ネット歌人が手っ取り早く自分を売り込みたくて自分たちのホームであるネットに里帰りして勝手知ったる仲間を相手にイキっているという構図が垣間見える。
だがその実体は、勝者として故郷に凱旋した雄姿ではなく敗残兵が乞食に身をやつして庶民の情けと無知にすがって生き恥をさらしているようなものであって、理想のためなら自国民を犠牲にするのも厭わない過激な反戦家(安保法制反対教授ならびに憲法九条信者など)としての顔も持つ各社主宰経験者がその姿を目にされたならさぞやお心を痛めることでしょう。
また浮浪者の徘徊が頻繫になれば緑豊かな地域の公園や親子で賑わうチビッ子広場でさえもやがて無法地帯になるのが周知の事実であるように、自身の才能のひもじさに毎夜ペンを齧っているようなルンペンが現代歌壇からネットへと大量に流出してくれば、誰もが気づいた頃には華やかならんとするネット短歌の世界も共食いで飢えをしのぐ貧民窟に様変わりしているのです。
このように悲惨な未来を唯一阻止できる受け皿こそ貧民を糧にして生きるインテリ集団その名も現代歌壇なのである。
住む世界が違うのだ!
スラム街そこに暮らす孤児たちが支配層の機嫌を損ねないように生き抜く唯一の手段。それは支配層が食い散らかした残飯を、さもありがたそうに貪り食うことだけだった。
犬のように生き犬のように死ぬだけだ。どこへ行ってもその宿命からは逃れられないのだ。
それでも、目上の者たちが次々とゴミ山に埋もれていく惨状を目の当たりにしてきた孤児の中にはそんな世界に嫌気がさしてスラムを飛び出して行った者も少なくない。
幸い彼らはゴミを主食として食い慣れていたし、人が集まる場所であればかならずゴミ箱を見つけることができたのでひもじい思いをすることはなかった。
こうして右も左もわからないスラム民がスラムを出てまず頼りにするのが、いち早く都会に出てきた同胞つまりは元スラム民ということになる。
頼れる兄貴のようなスラム民ようするに裏社会に生きる悪党のことだ。
強い者には媚び諂い、弱い者からは容赦なく奪いとることでしか命を繋げてこれなかったスラム民にできることと言えば万引き、置き引き、かっさらい、他には偽物を本物と騙って売りつけるような犯罪しかない。
都会ではそれらが仕事になることを彼らは学んだ。彼らにとって幸運だったのは犯罪は生きるための行動であって心を痛めることではなかったことだ。
そして彼ら元スラム民の中には裏社会の顔役となっていく者も現れた。
顧客名簿には庶民如きが相手ならまだまだハッタリとよいしょで稼げるわいと庶民の憩いの場に経済特区を画策する大手メディアもあった。
そんな世の中のシステムなど知る由もないスラム民たちは出て行った連中が食べたいものを食べ、眠りたいときに眠り幸せに暮らしていると風の噂で聞きつけ、彼らに続けとばかりスラムを出る者が続出した。
その結果あれよあれよと濁流のごとき集団が流れ込んできたことで都会の一角には大きな澱みのように深く濁った犯罪組織ができあがる。
いったんこのような流れができてしまうと川に幾つもの澱みがあるように犯罪組織も一つ二つでおさまるはずもなかった。
やがてギャング同士の熾烈な縄張り争いが勃発して抗争は激化していく。
かつては文化的な街並みも大手メディアの資本が入ったドンドンパチパチ後は、みかじめ料目的の下品な人間が肩で風切るネオン街となり果てて八百長、脅迫なんでもありの裏カジノでは「にいちゃん店だしたんかあ」と同郷の流しに声をかける反社が後を絶たない。
そこでは元新人賞受賞歌手が運営する歌唱教室の生徒でもある自称おねえさんたちが低俗なラブソングを口ずさみながら客引きをするのであった。